2002年3月のぼやき



3月31日(日)

朝起きて、最初に感じたのは胃腸の痛みであった。胃腸の薬は朝・昼・晩の3度3度シッカリ飲まなくてはならないため、とりあえず冷蔵庫の中にある食べられそうなものを食べ、薬を飲んで再びフトンの中へ。しかし、あまりの痛みに、のた打ち回り続ける私…。

今日は、横浜市長選挙の投票日。有権者として、そしてハマッ子として、棄権するわけにはいかない。昼下がり、ようやっと胃腸の調子が落ち着きかけてきたので、着替えて投票所に出かけた。これで横浜の市政に物申す権限を得た。

投票所からの帰り道、コンビニに寄って(体調が体調だけに、自炊が出来ない状態なので)昼食と夕飯を買い込み、再び帰途に就こうとした時、胃腸科の今井勝先生とバッタリ遭遇した。今井先生は「どうだい。胃の調子は?」と、私の体調を尋ねてこられた。私が、まだ痛みがひかないことを告げると、「まぁ、ストレスは抜けないからね。薬のほうは一昨日からの飲み始めだから、3日は痛むかな。タバコは吸わないんだったよね?」と、私の日常生活から病状まで、すべてお分かりの様子であった。しかし、3日は痛みがひかない…ということは、今日も痛むのは当然だったということか。

明日から新年度だというのに、胃腸ネタで「ぼやき」をしめくくるあたり、私の運命が見え隠れしている…?


3月30日(土)

胃腸の調子は、相変わらず。そんな中、今日は2つのイベントが控えていた。

昼下がりに家を出て、板橋区成増を目指した。成増は、かつて私も4年間住んだことのある…というよりも、初めて一人住まいをした街である。板橋区には週に3〜4回も出講しているのに、なぜか成増に足を運ぶことはここ数年なかった。成増にはノスタルジックになろうとして訪ねたのではない。目的は、板橋区率成増アートギャラリーで26日から4月1日まで開催中の「波田野浩雲 木版画展」を見ることにあった。私と木版画の接点は特にないが、木版画家の波田野浩雲こと波田野浩先生は、帝京大学附属放射線学校で物理学や数学を講義したり実験を担当されている関係で、私とは同僚ということになる。そういう縁もあり、個展を見せていただく機会に恵まれたのである。木版画を通して見慣れた(見覚えのある)風景を見てみると、新たな発見があったり、波田野先生の思い入れが伺えて、面白いものがあった。

しかし…、胃腸の調子は最悪のままだった。東武東上線で成増に到着した後、私がすぐにかけ込んだのはドラッグストアだった。そこでドリンク剤を買い求めて一気飲み! 個展を見せていただいた後、以前よく買い物をした成増駅前の商店街「スキップ村」を歩いてみた。駅前にあったとんかつ屋さんは姿を消し、良く利用した書店もそこにはなく、一人住まいを始めるための道具やインテリアを買い求めた店も消えていた。「スキップ村」全体の雰囲気こそ以前とあまり変わりなかったものの、やはり親しんだ店が無くなってしまうのは寂しいものがある。あまり歩き続けていると体調を悪化させるように思え、後ろ髪を引かれる思いではあったが、成増の街をあとにした。

営団成増駅から地下鉄有楽町線に乗って池袋についたのが17時半。帝京大学福祉保育専門学校の新旧卒業生の飲み会の待ち合わせをするのだが、全員のことを知っているのは私だけなので、教師である私が早めに集合場所に行ってみんなを待ち構えた。最初に現れたのは、メーリングリストのメンバーでもある上田君。彼をはじめ、今日の飲み会に参加する昨年度の卒業生とは、昨年も飲み会を開いており(詳しくはこちら)、そういう点では1年ぶりの開催ということになる。しばらくすると、メーリングリストのメンバーで「うどんツアー」でおなじみの(?)mihoさんから電話が入る。どうも、池袋には着いたものの、出るべき改札を間違えてしまったらしい。そこで、mihoさんをピックアップに行くことになる。その際、mihoさんからドイツ菓子をもらう。私の誕生日のプレゼント&お礼のようである。ありがたく、いただくことにした。18時、参加予定者のうち、昨年度卒業生1名と今年度卒業生1名が遅れて参加するということになっていたので、私を入れて6名で場所移動した。会場となったのは、以前よく私が利用していた三間堂池袋店。運が良いのか悪いのか、宴会の予約が入っていたので「個室利用」ということになった。これが、会を異常なまでに盛り上がらせることとなったのである。18時過ぎの乾杯から始まった会は、23時ちょっと前にお開きとなった。実に5時間弱! 私は体調を考えてアルコールをほとんど飲まずにウーロン茶ばかり飲んでいたが、それでも楽しいものは楽しい。ただ、教え子たちに気付かれないよう、胃腸の痛みと戦ってはいたが…。

お開きになった後、私は、昨年末の六会での忘年会メンバーである細川雄史君と島宗一郎君と一緒に、細川君の車で帰ることになった。まず、島君の家を経由し、それから我が家を目指すことになったが、島君を送り届けた時、「ちょっと待っていてください」と言うので、しばらく待っていると、島君が手に袋を持って戻ってきた。島君の好きな本とCDが入っているという。「3年間、お世話になったので…」という島君からのプレゼント。これもありがたくいただくことにした。

学生の世話をするのは教師として当たり前のことなのだが、こうやって色々と感謝されて嬉しくない訳がない。そして、教え子たちといつまでもかかわりを持てることも、教師としては喜びである。


3月29日(金)

ここ数日、食事をしても消化が悪く、胃が重い感じが抜けず、さらに腸に刺し込む感じがあったので、自宅近所の病院に行って、医師の診察を受けてきた。実は、先日から知り合いが引越の作業をしており、手伝いに行く約束をしていたのだが、この体調のままでは、私はただの足手まといになってしまう。「ちょっとでも体調が悪かったら、手伝いに来ないで、体調を直すことだけを考えなさい」という言葉に甘え、毎朝、「今朝も体調が悪いので…」と携帯電話にメールを送り続けていた私であった。

今日訪ねた胃腸科(今井医院)は初めてかかる医院だったので、どういう雰囲気の所なのかもわからず、さらに胃はキリキリするばかりであった。今井医院は、今井勝先生お一人ですべてを切り盛りしているようで、私のカルテや診察券など、それらをパソコンを使って先生が作成されているのを見ると、私が子供の頃の「患者の状態を十分に把握しているかかりつけ医」の姿を見るようであった。

診断結果は…「ストレス性の胃炎」とのこと。医師に「私、ストレス論という講座も担当してます」と話をすると、大笑いされ、「まぁ、そんなもんだよ!」と肩を叩かれる私…。そう言えば、年末から今まで、例年では考えられないような出来事があり過ぎて、私の胃腸は悲鳴を上げ続けていたのかも知れない。それなのに、その悲鳴を聞こえないフリをして、ここまで持ちこたえさせてしまったのか…。

しかし、明日は帝京大学福祉保育専門学校の新旧卒業生との飲み会…。胃腸の休まる暇がない。まぁ、アルコールは摂取しないように努めはするが…。


3月28日(木)

2日間、しっかり寝ていたため、昨夜はなかなか寝つけず、うつらうつらし始めたかと思ったら、東の空から日が昇っていて…。寝入った頃、ガガガ〜ッという音が玄関のほうから聞こえてきた。そうだ、今日はガス工事の日だった。我が家の給湯器は室内(玄関脇)に設置されているのだが、アパートの改装工事と合わせて室外に取り付けることになっていた。先日、不動産屋さんから電話があった際、「その日は午後から仕事があるので、出来れば朝イチで工事に入ってください」とお願いしたのである。

ピンポ〜ン…と呼び鈴が鳴り、寝ぼけ眼で玄関を開けると、そこには大家さんと東京ガスの作業員の姿が?! 「お休みのところ、大変すいませんが…」と丁寧にあいさつをされ、寝ている場合ではなくなる。せっかく安眠モードに入ったところではあったが、仕方がない。洗面所でヒゲをそり、顔を洗い、朝食をとることにした。

玄関を開け放したままなので室内の温度が下がってしまい、腹の具合が少々悪くなってきたが、工事をしている作業員の方々はもっと寒いはず。なるべく玄関から離れた場所にこもっていることにした。

相変わらず、ガガガ〜ッというドリルの音が、室内外の壁を伝って大音響を奏でている。ガスは作業後すぐに止められたが、しばらくすると「すいません…。水道を長い時間止めますので、トイレに行っておいてください」と言われ、手洗いを済ます。

テレビを見たり、メールチェックをしながら時間をつぶしてみたものの、13時を過ぎてもなかなか工事が終わるようでもなかったので、着替えを済ませ、作業員さんに「あと、よろしくお願いします」と言い残して出かけることにした。

帝京高等看護学院の進級査定会議の結果、私の担当する「人間関係論」で再々試験受験を認められた者が3名いるので、今日の16時までにレポートを提出するように学校に通達しておいた。レポートを提出後、簡単な面接諮問を行うことにしていたので、私も出講しなければならない。看護学院に向かう途中、薬局で整腸薬を買い求め、帝京大学福祉保育専門学校に顔を出し、買ってきた薬を飲み、給与振りこみ口座の変更届を提出した。私はいくつかの銀行に口座を開いているが、帝京の給与のほとんどは第一勧業銀行を指定していた。ご存知の通り、第一勧業銀行と富士銀行、日本興行銀行の3行は、4月1日に合併・分割してみずほ銀行・みずほコーポレート銀行となる。支店名や支店番号の変更もあるため、いちいち届け出なければならない(ちなみに、公共料金などの引き落としは、手続き不要だという)。看護学院でも同様の届け出を済ませておいた。

看護学院の再々試験受験者3名に対する面接諮問は順調に…とはいかなかったものの、それでも全員を合格させるに至り、ホッとする。

面接諮問を済ませた私は、池袋のホテルメトロポリタンに向かった。帝京大学附属放射線学校の教職員懇親会に出席するためである。放射線学校は平成6年4月に開校したが、1期生からずっと私は「社会科学」をひとりで担当し続けてきた。私の教員生活の中で、一番長く務めている学校であり、創設メンバーでもあることからも、この学校への想いは何か特別のものがある。

懇親会では、学校長をはじめ、専任教員・事務員の人事異動が発表され、ビックリする。胃の調子が思わしくないので、アルコールは乾杯の時だけにとどめておき、あとはひたすらウーロン茶だのオレンジジュースだのを飲んでつなぐ。目の前にあるビール、ワイン、水割り…あぁ、切ない…。しかし、アルコールを前にしても、健康第一でソフトドリンクだけでしのげるようになったあたり、「あぁ、大人になったものだなぁ!」などとひとり喜んでしまう私…。無理にアルコールを勧められることもない、こういう会合が私は好きだ。

帰宅すると、工事はスッカリ終わっていて(当たり前のことだが…)、給湯器は部屋の外にシッカリつけられていた。しかし…、今までは温度調整のつまみがあったので、お湯を出す時には赤い印のある蛇口だけをひねれば良かったのだが、今度の給湯器は温度調節の機能が…ない! 水とお湯の両方の蛇口をひねらなくてはならないのだ! あぁ、面倒くさい!!!


3月27日(水)

2日間、寝込んでしまった。年度末の大変な時に、風邪が悪化して、頭痛と消火器系統の機能不全に悩まされていた。眠りにつこうにも、頭と胃の激痛に苛まれ、苦しい日々が流れた。友人が「このところ、よく寝こんでいるようなので、検査をしてみたら?」と勧めてくれたが、本当に検査を受ける必要があるかも知れない。

よく考えたら、このところ多忙多忙と、忙しさのせいにして、ろくなものを食べていなかったような気がする。それも寝込んだ原因かも知れない。

何だか、こんなことで寝込んでいた私が情けなくなる…。

世間では、社民党の辻元清美政審会長の議員辞職が大きなニュースになっている。政策秘書の名義貸し問題が辞職の理由だそうだが、辻元さんはおそらく鈴木宗男攻撃のあおりを受けただけで、どの政党の議員だってやっていることだろう。でなければ、キャリアの浅い辻元さんがこのようなことを指摘されることはないはずだ。私は辻本さんを支援するとかしないとか、そういう立場には立たないが、議員を辞めるべきは自民党を離党した鈴木宗男と加藤紘一の両議員ではないのか? むしろ、辻元さんは離党するだけで良かったと思う。

それにしても、日本のマスコミの、よく言えば「ノンポリ」、悪く言えば「日和見主義」が、私には許せない。件の鈴木宗男議員の証人喚問で勢いよく彼を批難した辻元さんを「時の人」的に扱い、スポットライトを当ててきたのに、今やてのひらを簡単にクルッとひっくり返して、彼女を攻撃する。

私は、そういうマスコミの姿勢が大嫌いである。政治家に何を言われようが、スポンサーに何を言われようが、「ウチにはウチのやり方がある!」と腰のある局があっても良さそうなものを…。

特に私は、民放キー局の「女子アナ」と名乗っている人たちが嫌いである。


3月25日(月)

毎年3月25日は、日本大学の卒業式が日本武道館で行われる。メーリングリストのメンバーにも数名、卒業の日を迎えた者がいる。彼らのこれからの人生に幸多かれ…と、心の中で願うばかり。

「死を通して生を考える研究会」(略称 DE研)の主要メンバーで執筆される『“死を通して生を考える” 教育―子どもの未来を開くために』と題された本が、夏に出版される予定である。今日は本の執筆予定者が一堂に会し、座談会が催された。会場は八重洲地下街にある八重洲クラブ。場所は良く知っているのだが、利用するのは初めてであった。

11時、座談会は予定通りスタートした。本の趣旨はDeath Educationの必要性と実践を紹介するものである。座談会は14時までの3時間、休みなく進められた(12時過ぎから食事になったが、食事をしながらも話は続けられた)。Death Educationを進めていく上での現場の苦労談・問題点などから、Death Educationを研究・推進していくためのシステムの構築法などなど…(詳しくは、出版される本の中で紹介されるのでこの程度の説明で留めておくが)、自分の研究のモチベーションを高めていく上でも有益な討議が進められた。

座談会後、東京駅から東海道線で横浜に戻り、公共料金の支払や納税のために銀行と郵便局へ向かった。今日は25日…ということは、多くの企業の給料日である。銀行のATMは長蛇の列。しかし、家賃を納めるために入った銀行では「本日、ATM障害が発生し、ATMでの振込は出来ません」と行員が必死に説明していた。銀行のシステムでは、振込先の支店のATMでキャッシュカードを使用して振込をすれば、手数料が無料になる。家賃をよその支店から振り込めば、手数料が210円かかってしまう。よその銀行からだと、手数料が420円…。明日、出直すことにした。

そろそろ、新年度用の講義のプログラムを練り直さないと…。


3月23日(土)

久々に、「死を通して生を考える研究会」(略称 DE研)に出席した。研究会は2ヶ月に1度行われるが、このところ研究会の日と私の都合が合わなくなっていた。今日は何としても…と意気込んで横浜駅から湘南新宿ラインに乗り込み、池袋から目白に引き帰した(誤解のないように述べておくと、私は目白〜池袋間に有効な定期券を持っているので、決してキセルをしたわけではない)。しかし、どういうわけか道路が混んでいたためにバスの到着が遅れ、13時開始の研究会に5分ほど遅刻してしまった。

研究会では、Death Educationについてはもとより、自分の専門である社会学のネタになりそうな事例も見付かる。研究会そのものがネタの宝庫のようにも見える。今日もシッカリ、講義や執筆用のネタを拾い集めてきた。

研究会が16時半に終わった後、八重洲に行ってみた。一昨日、ザ・フォーク・クルセダーズ(略してフォークル。『帰って来たヨッパライ』で1967年にメジャーデビュー。1年で解散。メンバーは加藤和彦、北山修、はしだのりひこ)の “あの” 伝説の「イムジン河」が34年ぶりに発売されるということで大阪の津村さんと一緒にCDショップを探してみたものの、どこにも見当たらなかった。そこで今日、「八重洲になら、多分あるだろう」という私のカンで、ちょっと家路につく前に寄り道をしてみた。そして、ついに伝説と対面した…!!!

フォークルが「帰って来たヨッパライ」で大ブレイクし、世の中が「オラは死んじまったダ」と言っている頃、第2弾シングルをどうするか、東芝レコードとフォークルの間で話し合われ、そこで浮上したのが「イムジン河」だった。当時、この曲は北朝鮮の民謡だという認識を東芝のスタッフもフォークルのメンバーもしていた。しかし、発売前に、この曲が民謡ではなく、北朝鮮に作詞者も作曲者も存在することが判明した。今もだが、日本は北朝鮮との国交はない。さらに、1960年代後半というのは、韓国との国交正常化(1965年)の直後だけに、「イムジン河」を発表することによって政府レベルの問題もからむ危険性があった。東芝は、韓国内で「東芝製品不買運動」が起こるのではないかと危惧し、せっかく韓国に築いた製品輸出ルートが遮断されるのを恐れ、「イムジン河」発売日に、その発売中止を決定してしまう。

しかし…、日本全国で回収するはずの「イムジン河」の(初回)プレス13万枚は、3万枚が未回収のままになった。そのシングル盤は、今なら30万円の価値があるといわれている。

発売が中止になり、彼らは別の曲をシングル用に作らなければならなくなった。そこで、作曲担当の加藤和彦が「イムジン河」の録音されたテープを逆回転で再生し、それを譜面にとりながら「悲しくてやりきれない」を作り上げたという逸話が残されている。その「悲しくてやりきれない」がカップリングされた今回の「イムジン河」発売は、カレッジポップス好きの私にとって、何とも嬉しい企画であった。

「イムジン河」は、ラジオの深夜放送(例えば、オールナイトニッポン)で数回かけられたことがあるだけだったのにもかかわらず、当時の(反戦)フォークソングブームにも乗り、今まで歌い継がれてきた。昨年末の紅白歌合戦で、韓国出身のキム・ヨンジャが「イムジン河」を歌ったのを見て、「時代は変わったなぁ…」と思う私であった。

CDを自宅で聴きながら、そのジャケット見て気がついた。日本や韓国、北朝鮮をはじめ、万国の国旗が描かれているバックに、光にかざすと “peace” と書かれているのがわかるようになっていた。

もしも34年前に、今のような南北対話が実現されていたら、おそらく「イムジン河」は伝説にも何もならず、そしてただのナツメロとして、日本人の記憶の彼方へ消えていってしまったのかもしれない。


3月21日(祝)

春分の日の今日、大阪から津村さんが上京された。当初の計画では、津村さんは横浜に一泊し、今日一日ゆっくりアチコチを案内し、明日の飛行機で津村さんが大阪に帰られる…というものだったが、春闘の影響で明日は飛行機が飛ぶかどうかわからないということで、急遽予定を変更し、津村さんは日帰りされた。

11時に羽田空港で津村さんと合流し、京浜急行と山手線、田園都市線を乗り継いで、用賀にあるFM世田谷に向かう。しかし…関東地方は台風並みの強風が吹き荒れ、体重の軽い私など、吹き飛ばされそうなほどであった(津村さんも10センチほど後ろに押し戻されていたが…)。

FM世田谷で用事を済ませ、再び田園都市線に乗り込んで三軒茶屋へ。キャロットタワー26階のstudio carrotへ。お目当ては、トワ・エ・モワの芥川澄夫さん担当の「オープンサロン834」を見学(?)することである。番組は13時から17時までだが、今日中に津村さんをアチコチ案内することになった関係で、番組途中で失礼させていただくことにした。

三軒茶屋から田園都市線と東横線を乗り継ぎ、横浜からバスに乗り換えて中華街へ。いつもの華都飯店へご案内! 華都飯店を訪ねるのは1年ぶりくらいなのだが、「あら、お久しぶりです!」と陳さん一家の温かなもてなしを受ける。この店は水餃子が美味しいので、迷うことなくそれを注文し、さらに牛バラ肉の鉄板焼き(絶品!)、チャーハンなどを注文。津村さんにも満足していただいた。

18時過ぎ、津村さんは、横浜駅東口にあるYCATから羽田空港行きのバスに乗り込まれた。

それにしても、関東地方は強風は夜中までおさまることを知らず、そのために電車のダイヤは大幅に乱れていた。運転見合わせ→運転再開→見合わせ→再開…の連続。駅のホームにはイライラ顔の人々…。


3月20日(水)

謝恩会から一夜明け、昨日もらった花束を何とかしようと思い、花瓶を買いに横浜駅に出た。はじめにビックカメラで音楽用CD−Rを購入し、それから100円ショップに向かった。今どきの100円ショップは、かなり高性能のものが揃っていて、専門店のものと遜色ないものが多い。消費者としては、1円でも安くて良いものを買いたいものだが、100円ショップはそれを満たしてくれる。しかし、安さに酔いしれ、気付くと余計なものまで買い込んでいたりするから、本当に安い買い物をしたのかどうかは不明瞭である。

鈴木宗男・衆議院議員の証人喚問で威勢が良かった辻元清美議員が、秘書手当横領の疑惑で進退問題に発展しそうだという。一体、この国の政治はどうなってしまったのだろう?


3月19日(火)

放射線学校の謝恩会が池袋のホテルメトロポリタンで開かれた。今年卒業するのは6期生。彼らが1年生の時、ちょうど私の『ストレス・スパイラル』が出版され、彼らのお蔭で丸善日本橋店のベストテン(1999年9月12日付け)ノンフィクション部門第5位に『ストレス・スパイラル』がランキングされたことがある。それだけに、今日は特別(格別)な思いで宴に参加した。

卒業生を送り出すということは、自分の責任を果たし終えた安堵感を覚え、彼らの喜びに満ちた顔に嬉しい気持ちになる。その反面、寂しさもある。なかなか複雑なのである。

19時から始まった謝恩会も、これ以上ないというほどに盛り上がっていた。突然、司会の学生からスピーチを頼まれ、「何を話そうか…」と考えていると、目の前の美酒も、神々しい(?)料理も、手につかなくなるほど。結局、講義初回に話した「人間として成長するためには、他人(ひと)の嫌がることはするな!」というメッセージを短めに述べて終えた。

宴の終盤、花束贈呈の儀式があり、私も花束を受け取った。そして集合写真…。お開きになった頃には、21時半をとっくに過ぎていた。

帰り、池袋から山手線で田端に出て、そこから京浜東北線1本で帰ろうと思い、池袋駅7番線に向かった。そこで私は、日暮里に行くというオバサン3人組に遭遇した。ちょうど来た電車が大崎止まりだったこともあり、オバサンたち、行き先のついた山手線にひるんでいた。私が「どちらへ行かれるんですか? 日暮里ですか? なら、この電車で大丈夫ですよ!」と教えてあげると、「ありがとうございます。助かりました」と、オバサンたち。しかし、その中の一人が「大崎って、どこですか?」と聞いてきたので「品川の1つ先ですよ」と教えてあげると、別のオバサンが「ちょっと、それじゃあかなり大回りするじゃないの?! ダメよ! 次の電車にしましょうよ!」と言い出し、発車間際に降りてしまった。行き先はともかく、乗った電車は外回りなのだから、品川よりも “かなり” 先に日暮里を通るのに…。車内の、私を見つめる乗客の同情にも似た目…。何だか気まずい思いで池袋を後にした私であった。

それにしても、花束を抱えて歩くのって、いくら経験しても慣れないものである。


3月18日(月)

8日にも書いたが、私の住んでいるアパートは今、改装工事の只中である。数日間、業者さんが来ていなかったのが気になったが、どうやら先日の明け方に雨が少し降ったのが原因だったらしい。少しでも雨が降ると、外壁にペンキを塗れないようである。それで、完全に壁が乾くまで作業が中断されていたらしい。

今日は、朝から業者さんが来ていた。予定では、玄関枠の塗装だったはず。そこで、出かける予定もキャンセルして、ひたすら家にこもっていた。しかし、どういうわけか、一向に玄関枠の塗装に入る気配がない。途中、呼び鈴が鳴り、玄関を開けると、なぜか洗濯機が玄関前にあって開けられない。どうやら、洗濯機をずらして壁の塗装をしていたらしい。

夕方になって、不動産屋さんが「雨のため、工程が遅れてしまいましたので、玄関塗装は21日の予定です」というメモを郵便受けに投函していった。それならそうと、なぜもっと早く言わん?!

17時過ぎ、一日の仕事を終えた業者さんが車に乗りこんで帰っていった。さて買い物…と玄関を開けると、ゴツンという音とともに懸念していたことが…。業者さん、洗濯機を元の位置に戻さないで帰っていったらしい。自分で元に戻そうと試みるも、わずかしか開かない玄関から洗濯機を動かすことも出来ず、不動産屋さんに電話を入れ、状況を説明した。「至急、何とかします!」という返事を得て数分後、業者さんの車がアパートに。その数秒後、ガリガリガリ…という音が。「すいませんねぇ…。途中で引き返してきました」と業者さん。悪気があったわけでもなく、そして自分の住んでいるアパートをきれいにしてくれているのだから…ということもあり、私も笑顔で「ご苦労様です!」と答えた(つもりだ)が、地震の多い昨今、これで逃げ遅れたりしたら…と思うと、ゾォ〜ッとするものがある。

本日、日本大学国際関係学部の出講曜日変更が確定した。土曜日から月曜日に講座は移行。学生数が今までより増え、新たな刺激があれば嬉しいものだ。


3月16日(土)

今日は白鳥英美子さんの誕生日。トワ・エ・モワでデビューして、今年で33年…。そのキャリアは感服ものである。

昨日、日本大学医学部附属看護専門学校の進級判定会議が、日本大学医学部第1会議室で開かれた。数名の学生が留年・進級の間に立っており、この場で行く道が決定される。もしこれが自分の判定だったら…と思うと、ゾッとした。

それが原因ではないが、昨夜から体調がおかしくなり、かなり早寝したのだが、朝方に激しい頭痛にさいなまれ、夕方までフトンの中にいるハメになった。何となく一日を無駄にしたような気もするが、頭痛と戦っている最中にはそんなことを思う余裕さえなかった。あいにく、鎮痛剤の在庫も切らしていて、ひたすら安静とアイスまくらに頼る私であった。

幸いにして、夜になって症状が軽くなったので、食事をすることにした。とはいえ、体はフラフラ状態なので、手の込んだものを作ることは出来ず、温めればよいものを冷蔵庫から出し、今日で賞味期限が切れるパンと一緒に胃袋に流し込んだ。食事をすると、また少しずつ体調が快方に向かっていく…。

昨日は、衆議院議員の鈴木宗男氏が自民党を離党した。私としては…というよりも世間的には “離党” だけで済まされる問題ではないような気がする。政治家そのものから足を洗っても、世間は彼を許さないだろうし、政治家を続けていても “禊” (みそぎ)にならないようにも思える。しかし、悪いのは彼だけではない。自民党そのものの体質に問題がある。民主主義という名の元に38年間の一党独裁が続いてきたことも、少なからず関係しているだろう。そして、それを支えたのは日本国民であり、鈴木宗男氏を批難しているのも同じ日本国民であるという事実も、決して忘れてはならない。

2002年に入り、心身ともに疲労している状態から抜けられない。この状況を脱するのはいつの日か?


3月9日(土)

花粉症ではないのだが、どうも鼻炎を患ったらしい。それで体がだるくなり、昨夜は早めに就寝した。

そして今朝、昨日から始まったアパート改装工事の業者さんの声で目が覚めた。しかし…朝から聞こえてきた声は、同僚を批難するものだった。「仕事する気、あんのかよ?」「いい加減にやるくらいなら、やんなくていいから、とっとと帰れ!」などなど…。聞いているこちらまで不機嫌になる。

昼過ぎ、白鳥英美子さんがオカリナ奏者の宗次郎さんと一緒に生出演したNHK−FMのリクエスト番組を聴いた。このところ、ラジオを聴かなくなってしまった私ではあるが、今日は特別である。

学生時代は、ラジオを良く聴いた。テレビを見るよりもラジオを聴く時間のほうが長かった。フトンに入りながらでも聴いた。深夜放送が面白かった。DJたちのトークが冴えていた! DJとリスナーによるコミュニティがあった。多くのことをラジオで学んだ。ところが、今のラジオは面白くない。パーソナリティにプロ意識を感じない。くだらない内容が多すぎる。流行を生み出さない…などなど、ラジオから私が離れていった理由は数え切れない。

「DJ」や「ハガキ職人」という言葉も、もう死語となってしまったようである。古き良き時代ばかりを偲ぶというのは、もしかすると社会学者として欠格なのかもしれないが、やはり、昔のラジオは面白かった…。


3月8日(金)

私の住んでいるアパートの外壁・通路・階段などの改装工事が、今日から2週間ほどの予定で始まった。朝、トンテンカンという音が聞こえて目が覚め、それで工事開始を思い出した。不動産屋から事前に改装工事についてのチラシをもらっており、それを冷蔵庫にマグネットで留めておいたので、騒音のためにパニックに陥ることはなかったが…。

今年は、桜の開花が例年よりも早くなるらしい。ウチの近所には、桜の(隠れた)名所があり(奇しくも、こちらも改装工事中)、春になると桜の花びらが風に乗って我が家の玄関前まで飛んでくる。

しかし、今年は桜を見ても心ウキウキとはいかないような気がする…。


3月7日(木)

久々に、母校である日本大学文理学部に行って来た。そろそろ教員としての資格確認が必要となる学校も出てくるだろうということで、文理学部教務課で大学院博士後期課程(博士課程)の満期退学証明書と博士前期課程(修士課程)の成績証明書、ついでに学部生時代の成績証明書を申請した。学部内は工事が相次ぎ、私が学部・大学院と通い続けた9年間の姿とは違う様相を呈しているものの、そこは紛れもなく私の母校である。愛着がないわけがない。

文理学部へ行った目的は、もう一つあった。実は、同じ日本大学の国際関係学部の学生2名(ひとりはmayuさんだったりする)が文理学部心理学研究室に呼び出されていたため(実験の被験者になるらしい)、道案内を頼まれたのである。

日本大学は学部ごとにキャンパスが分かれているため、他学部のことを全く知らずに卒業してしまう者も多い。私は今、日大の国際関係学部・松戸歯学部・通信教育部・医学部(附属看護専門学校)に出講している関係で、アチコチのキャンパス事情を知っており、さらに高校が日大の附属高校であるため(おまけに、高校は生物資源科学部の敷地内にあったので)、日大のすべての学部に友達がいたり、行き来する用事も出来たりしたものだが、そうでない学生は、自分の所属する学部しか知らないということになる。

今日、文理学部に連れていった学生たちも、ヘタすると静岡県三島市の国際関係学部キャンパスしか知らずに「日大卒」を名乗ることになったかも知れない。そう考えると、良い経験をしたのかも?!…と思いつつ、自分の母校を案内した。

全く関係のない話だが、ここ数日、眠気が抜けなくて困っている。どんなに寝ても、眠いのである。昨日などは、キチンとした一日(?)を過ごそうと思っていたのにもかかわらず、どういうわけか夕方になってものすごく強力な睡魔が襲ってきて、今朝まで15時間も眠り続けた。しかし…起き上がった時には眠かったのである。

なぜだろう?


3月4日(月)

唐突ではあるが、インターネットの世界では有名といえる「大学」がある。この「大学」はアメリカに本校があるらしい。そして、SPAMメール(いわゆる「クズメール」)で「あなたの研究・社会での業績などを単位に換算し、学位を認定」などと謳い上げてくれるのである。最近、私の元には届かなくなったが、その「大学」の名前を検索エンジンに入力すると、ヒットするサイトのほとんどがクレーム関連。

このところ、どういうわけか朝4時になるとパッチリ目が開いてしまう。そこで今朝、4時に目覚めた自分の眠気を完全に覚ますため、インターネットにアクセスし、その「大学」の公式サイトを見てみた。すると、途中で私のパソコンの画面が急に変わり、アンチウィルスソフトAVG 6.0 Free Editionからの英文メッセージが現れた。そこには

Virus infection detected!!

という表示が?! 「ウィルス感染」である。感染したのは、その「大学」のとあるページをダウンロードしたのが原因である。ウィルスは、AVG 6.0が難なく駆除してくれたから良かったものを(フリーソフトなのに、かなり性能が良いので、逆に感激したりして?!)。それにしても、SPAMメールだけでなくウィルスまで撒き散らすのか、この「大学」は?!

帝京大学福祉保育専門学校に出講した。卒業該当学年(3年生)の2名が、私の科目の単位を未修得であり、再試験(レポート提出&面接諮問)を行うためである。福祉保育に向かう途中、帝京高等看護学院に顔を出した。私が提出した書類に不備があったため、それを修正してきたのである。福祉保育では、無事に再試験に2名とも合格してくれたのでホッとした。


3月3日(日)

JR横浜駅の構内掲示が新しくなり、ハングル表記が加わっていた。大阪あたりでは珍しくもないことだが、やっと関東でも多民族共存意識が芽生えたか…と、ちょっと嬉しくなった。

今日は「ひなまつり」。しかし、男兄弟しかいない&ひとり住まいの私には、とにかく無縁の行事である。結婚して女の子を授かったら…と考えるのも、気が早い。

「1ヶ月遅れだけれど…」と、知り合いから誕生日のプレゼントとして電気スタンドをいただいた。横浜に引っ越してきて以来4年間、買おう買おうと思いつつも買わずにいた電気スタンド…。非常にありがたいものである。

帰宅すると、ポストに日本大学国際関係学部からの書類が届いていた。2002年度のシラバスの校正をするように…とのことだったが、私の提出(執筆)したシラバスがすべて、「私立大学等経常費補助金の基準に達しないと判断され(以下、略)」とあり、4月に基準にあったシラバスを学生と教務課に提出するよう書かれていた(とりあえず、提出済みのシラバスは、そのまま印刷するらしい)。勤務5年を過ぎ、シラバス執筆にあたってこのようなことを言われるとは?! ちょっと、へこみ気味になる。校正するのも修正するのも手間は同じなので、必要条件を書き加え、大学と印刷所に送ることにした。

もしかして、講義内容が「基準に達しない」のか? 恋愛の話だの何だのというのが許されないのか? 恋愛社会学という新しい分野もあることだし、まぁ、条件通りに執筆していなかっただけのことだと思うことにしよう。


3月2日(土)

今日はとある専門学校の卒業式。お招きいただいてはいたが、新年度からリストラされる身である私が行ってもめでたくなかろうと思い、欠席させていただいた。また、夕方から謝恩会が催されたのだが、これも同じ理由で欠席させていただいた。

今日卒業するのは、私がその学校で初めて教えた学生で、着任当時の私は音楽活動もしていたので、ライヴにも来てもらったことがある。私がどのような状況であれ、卒業生たちには関係ないといえば関係ない。しかし、着任前は何度も何度も私の自宅に電話がかかり「是非とも、4月から講義を担当してください」と言ってきたのが、新カリキュラムへの移行に伴って科目超過があり、そこで「特に必要ないと思われる科目を削除することになりまして…」と言いだし、いとも簡単にリストラされるとは…?! それにしても、まだ正式にリストラ勧告書が届いていないのは、どういうわけだ? 私が年末、学校に電話をかけ、それで上記の件を知ったのだが、「正式に決定しましたら、お電話いたします」という言葉を最後に、今の今まで電話がない。

先日、どうしても眠気に勝てず、録画しておいた番組を明け方に再生してみた。そこでは、香港へ出演者全員が買い出しに出かけるという企画の番組が…。香港には1999年と2000年の2年連続で、それも旧正月の時期に出かけたことが思い出される。香港には友人が数名いるので、連絡をすれば現地で再会することも可能なのだが(一部の友人とは、ICQでチャットをしていたこともある)、忙しくて、どこに出かけることも出来ないのが現状。

元気を取り戻そうと思い、久々に横浜の伊勢佐木町近くにある(最寄駅で言えば京浜急行の日ノ出町)南大門プチ市場に行って来た。ここの2階には屋台村がある。入口でチケット(金券)を購入し、数件あるお店で料理と引き換えるのであるが、今日はヘジャング(牛の血のかたまりを煮込んだスープ)定食を食すことにした。店先で「ヘジャング ハナ チュセヨ」(ヘジャンク定食、1つ下さい)と注文し、すぐ別のものも韓国語で注文した。しばらくして、店のおじさんが「韓国人だと思って、(青)トウガラシを(ヘジャングに)入れちゃったよ」と言いながら料理を運んできてくれた。久々に話した韓国語だったが…というよりも、かなりあやしい韓国語なのだが、とりあえず少し嬉しかった。

以前も書いたのだが、私のソウルフードは、どういうわけかキムチなのである。日本人なのに、何だかキムチで元気が出てくる。韓国料理は、必ずといって良いほど、サービスでキムチ類がテーブルに数品並ぶのが嬉しい。ヘジャングで元気モリモリといった感じなので、そろそろ、『ストレス・スパイラル』の第2弾の執筆にかかろうかな?


3月1日(金)

早いもので、平成13年度末がすぐそこまで来ている。平成13年度も、いつもと同じように過ぎて行ってしまった…というよりも、例年と同じレールを、より過酷な試練を背負いながら過ぎて行ったような気がする。

最近、この「今月のぼやき」のトーンが暗いとの指摘を受けることが多々あるが、せめて年度末くらい、以前のように明るくぼやいてみようかな?…と思う私であった。

とか言いつつ、今日は体調を崩し、一日中フトンの中にいたのも事実…。


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