第7回 知識と常識 その3



「知識」について、あれこれ実例を挙げて述べてきました。この項目の最後として、偶然にアクセスしたサイトの管理人である茶有(チャーリー)さん(2003年1月21日のぼやきに紹介してありますが、学生時代に社会学を専攻してたそうです)という方と対話(?)したいと思います。

社会学についてのコーナーもある茶有さんのサイトを見つけた私は、そのBBSに書き込みをしておいたのですが、後日、茶有さんが私の書き込みに呼応してくれていました。その中に

という記述がありました。茶有さんの考えは、ある意味「もっとも」なことだと思います。しかし、私は別の答えを持っています。

「大学で4年間勉強したことは、社会に出たらまったく役に立たない!」と言う大卒者がいます。彼らに共通していることは、「大学時代に勉学意欲がなかった」、あるいは「大学時代に学問にキチンと取り組もうとしなかった」ということです。講義にろくに出席もせず、あの手この手で単位だけとって、それで卒業していったのであろうことが容易に想像できます。だから、「役に立たない」のではなく、「理解していない」と考えるのが筋であると思われます。ただ、そういった学生が多数派となりつつあるのも、今の日本の大学なのですが…。

大学で学ぶことは、どれも無駄なことなどないと思います。学問は、日常生活の必要性の中で生まれたものです。学んだことは、必ず日常生活に根ざしています。しかし、「大学という環境」で、そして「卒業のために仕方なく」履修するのでは、「知識」が身に付くはずもありません。

私は、大学で学んだ学問を、あるいは独学で学んだ学問を、あえて意識して生活することは勧めません。専門的に利用することも勧めません。そういった「意識」は、肩に力が入りすぎて、かえって学問嫌いを誘発します。

しかし、「実践的に生かす」ことはできると思います。経済学を専攻していた者が、就職して企業の売上を伸ばそうと考える時、経済効率とか市場原理などを無視することは出来ません。ここで実績を伸ばせば、企業はもちろん、自分の生活も安泰です。生活がかかっているのです! だから必死に頑張れます。でも、大学時代には、単位を落としても「生活がかかっている!」という発想には至らない人が多いのではないでしょうか?

政治学でもそう、今の内閣の政策が国民の意思をどの程度反映しているのか、税率がどこまで引き上げられてしまうのか、年金は…などと国政と自分の所得・生活と結びつくと、ちょっとは注目してみようかという気持ちも芽生える可能性が出てきます。しかし、大学で…となると、そこまで考えないというのが実情かもしれません。

社会学にしても、責任ある立場に自分が置かれた時に、かなり有益な理論があります。あるいは、「友達と仲良くなりたい」とか「少しでも良い人だと思われたい」ということでも、社会学理論が助けてくれることが多々あります。

買い物をする時に「経済学理論」を意識したり、消費税のことを「政治学」的に考える人が少ないのは、学問が知らないうちに根付いているからです。社会学理論にも、そういうものが多々あって、私が講義で具体例を挙げて学生に語ると、「あぁ〜っ!?」という声が漏れ聞こえてきます。

知らないうちに、学ばなくとも、人々の体に染み付いている…学問というものはそういうものです。それを、「学者」と呼ばれる人たちが理論体系化し、「学問」に仕立て上げたのです。

中には、「学問」を特権階級的にとらえる学者もいます。もってのほかです。学問は、みんなのものです! 全人類のためのものです!

きっと、茶有さんも、知らず知らずのうちに社会学的な(学問的な)発想をとっていると思います。