第4回 目を覚ませ、日本人!(国際社会編)



オリンピックやワールドカップなどのような国際競技会を見ていて何となく思うこと――それは、「日本(人)は、まだ差別(見下し)の対象である」ということ。

私自身が日本人だからぼやいているのではなく、客観的に物申しても、日本(人)の置かれている国際社会での立場は、まだまだ「不平等の象徴」のようで、 “日本(人)不利” に物事が動くことがあっても “日本(人)有利” に物事が動くことはない、そういう状況下にあるということなのです。

にもかかわらず、日本人は、日本(人)を見下している国々に出掛け、それらの国のブランド品を自慢げに身に付けたり携帯する。茶髪やキンキンの金髪、カラーコンタクト、洋画・洋楽への崇拝、横文字だらけのグループ名・曲名・鉄道名…などなど、まるで日本文化を避けようとしているかのように見えてしまいます。

東海道線(東日本)の快速電車は「アクティー」、同様に宇都宮線は「ラビット」、高崎線は「アーバン」。どうして、「この電車は快速 “活発” 熱海行きです」とか「宇都宮線 “うさぎ” 宇都宮行きです」「高崎線 “都会” 高崎行きです」などというふうにならないのでしょう? 特急名が日本的であっても、その前に「ワイドビュー」「スーパービュー」「フレッシュ」「リゾート」などというような横文字が並ぶこともしばしば。

グループ名にしても、曲名にしても、横文字が目立ちます。アーティストたちが本当に意味を知って名付けているのかどうか、甚だ疑問ではありますが、間違った横文字使用法が濫立しているのは事実です。

よく私も、学生たちが日頃良く使用している横文字について質問することがありますが、意味を聞くと、9割以上の確率で間違った解答をされるか「わかりません」といわれるかの、どちらかに遭遇します。

映画鑑賞が趣味という学生に、どういう映画を観るのか質問した時、ある学生は「ほとんど洋画ですね。邦画はダサイ。でも、北野(武監督)作品は別。だって、北野武って海外で評価されているんでしょ?」と答えてくれました。海外で評価されないと評価の対象にならない邦画っていったい何なのでしょう?

学問の世界でもそういう傾向はあります。第2回で述べたように、最近の社会学者は「どこの国の誰それの理論」という追究が喜ばれ、オリジナリティあふれる研究が日の目を見ないこともあります。どうして海外の理論だと最近のものでも引用が許され、独自の構築が否定されてしまうのか、考えても虚しいだけなので最近は(いわゆる)学者との距離を適度に保ちつつ、研究者として活動しているのですが、やはり腑に落ちないことばかりです。

洋食や洋画・洋楽、横文字ばかりを追いかけているクセに、外国語がほとんど出来ない…というのも、日本人の特徴でしょうか。その点を指摘すると、「だって、ここは日本でしょ?」とか「日本で一生を過ごすのに、日本語さえ出来れば苦労しない」などと言ってのける若者も多いものです。なら、何で海外のものばかり追いかけるのでしょう? ここに矛盾が生じます。

要するに、「日本の文化はダサイ」「欧米の文化はカッコイイ」というのが彼らの発想なのでしょうが、中身から欧米化するのは面倒だから、せめて外見だけでも…という安易な発想もあるかと思います。これでは、日本人は欧米諸国の「精神的植民地」でしかありません。「植民地」扱いされているのであれば「差別(見下し)の対象」になるのも当然です。

自文化を誇っている国々の人々は、どこか威厳が立ち込め、凛々しささえ感じます。日本人である我々も、日本文化の良い所をもっともっと、国際社会に訴えるべきではないでしょうか?

追記(2002年2月20日のぼやきより、一部修正転載)

盛り上がらないソルトレーク五輪…。社会学者のぼやき・第3回で述べたように、どうも選手が潰されかけているような気がします。開会前は「日本はメダル17個以上確実!」「金メダルは5つ!」などとはやし立てていたマスコミが、いまや選手批判に回りつつあるのです。あれほど期待されたスキージャンプ陣もメダルがゼロ。それと、日本不利の条件を諸外国…特に欧米から突きつけられているように思えてならりません。日本人が活躍する競技(あるいは、日本人が入賞する競技)は、その後になってルール変更されることがしばしばあります。かつて、ソウル五輪の男子背泳ぎで金メダルを獲得した鈴木大地選手の特徴であるバサロスタート(スタートしてからしばらく、ずっと水中を泳ぎ続けることによって空気抵抗を減らす泳法)も、彼が25メートル近くをバサロでスピードを上げて勝利した後、距離を限定されるよう、ルール変更されました。ラージヒルやノーマルヒルも、日本人不利のルールに変更されたような記憶があります。

今一度、日本人は国際社会にプロテストすべきではないでしょうか?!