第3回 スポーツと芸術の正しい振興法



2002年2月9日、21世紀最初の冬季五輪――ソルトレーク冬季オリンピックが開幕しました。日本国内では、前回の長野五輪の時に日本が獲得したメダルの総数が期待以上だったこともあり、今大会では前回以上の期待がかかっていました。早速、女子モーグルで里谷多英選手が長野での金メダルに続いて銅メダルを獲得し(冬季オリンピックで個人が連続してメダルを獲得するのは初めてのことらしい)、一方、上村愛子選手は6位入賞。まぁ、期待通りなのかもしれませんが、「ホッとした」というのが本人たちの正直な気持ちだと思います。

どうも日本という国(日本人)は、スポーツ選手の育て方を知らない…。「知らない」というよりも、「堕落させるのが得意」なのかもしれません。

前評判の高い選手が好成績を残せなかったりすると、あれほどチヤホヤしていた国民が、てのひらをクルッとひっくり返し、ブーイングの嵐を浴びせ掛ける。ジャンプの原田雅彦選手の「失敗ジャンプ」などがその例だろう。逆に、前評判の低い無名選手にはインタビューもせず、スポットライトも当てない。しかし、オリンピックでメダルを取ったり入賞したり、国際大会で良い成績を残すや否や、てのひらをクルッとひっくり返し、チヤホヤし始める。そして、マイナーな競技がメジャーに変わる。

かつて、ロサンゼルス・ドジャーズに入団するために日本を離れた野茂英雄を見送るため空港に集まった報道陣は12名。報道陣はおろか、国民のほとんどが「裏切り者!」と罵声を野茂に浴びせ掛けたものです。そんな彼が1年目にオールスター戦出場を果たし(先発投手になったことは、記憶に残る鮮烈なシーンでした)、新人王を獲得するや、帰国会見に集まった報道陣は200名以上。それでも彼は謙虚に振る舞いましたが、しかし「出発前とはエライ人数の違いですね。(1年目を)『クソッ、見てろよ!』という気持ちで頑張ることが出来たので、良い成績を残せたのは報道陣のみなさんのおかげです」という皮肉を言ってのけた時には「アッパレ!」思った私でした。

今回、里谷選手が銅メダルを獲得したからまだ良かったものの、これが二人ともメダルに手が届かなかったら…と思うと、背筋が凍りそうな思いがするのも事実です。上村選手は今回もメダルは獲得できなかったのですが、(私はスキーそのものが出来ないので大きなことは言えないのですが)、彼女も「メダル当確」扱いをされていた上、何となく彼女自身もメダル獲得の自身があったような気がします(それくらいの自信がなくて、入賞は狙えないだろうが)。そして、そのようなコメントを求められていた事実もあります。しかし、里谷選手も上村選手も、ジャンプの原田選手も、愚かなマスコミに踊らされ、アイドル化してしまいました。

アイドル(idol)とは、偶像――すなわち「実在しない人物」のことです。みんなの理想の姿を押しつけられ、それを演じることによって「崇拝」される対象です。よって、アイドルは「期待はずれ」なことをしでかすと、そこで崇拝対象ではなくなります。ファンが離れていくというのは、そういうことです。マラソンの有森裕子選手(バルセロナ五輪・銀メダル、アトランタ五輪・銅メダル)や高橋尚子選手(シドニー五輪・金メダル)、柔道の山下泰裕選手(ロス五輪・金メダル)などは、まさにアイドル化されたまま「偶像崇拝」が成功した例であるといえます。

中には、チヤホヤされて天狗になって、その後の人生を踏み外す者もいます。スポーツ界を引退してタレントになって、結婚して離婚したり、交通信号で鉄棒競技の真似事をして警察に書類送検されたり、CDを出してヘタな歌声を披露してみたり…。長くは続かない(実力の伴わない)栄華を楽しむのは、身の破滅を招きかねないことでしょう。

芸術部門にしても、日本政府は「お金」が本当に必要な所に助成しないようです。才能のある芸術家よりも “お金持ち” の芸術家(中にはセンスのない者もいる)がスポットライトに近くなる。日の当たる場所を求めてより精進している「才能のある芸術家」は「お金」がないので、(画家であれば)個展も開けず、(歌手であれば)CDも出せない。“お金持ち” の芸術家(中にはセンスのない者もいる――例えば芸能人)が、人気に任せて個展を開いてみたり、CDを出してみたりする。ファンが作品をけなすわけなどないし、飛ぶ鳥を落とす勢いの芸能人であれば、マスコミも批難はしない。それで、芸術センスのみじんも感じられません。

以前、知り合いのバレリーナにこんな話を聞いたことがあります。日本に限ったことらしいのですが、バレエでプリマ(主役)になるには、実力と同等に、ある時には実力以上に「お金」の力が必要なのだそうです。バレエ団の規模や公演の規模、会場の規模によって異なりますが、舞台で役をもらうだけで20〜30万円のチケットノルマが課せられ、プリマになると、それが5倍以上に跳ね上がります。私の知り合いは、「白鳥の湖」のプリマ(オデット姫)を演じる機会が与えられ(実力からして、それは当然のことだったのですが)、チケットノルマを150万円課せられました。チケットが1枚5000円だとしても、300枚も売らなければならないわけです。彼女は、知り合いにチケットを買ってもらったり、お金を借りたりして、何とかノルマをクリアしたのですが(中には、チケット代金を1枚あたり1万円以上にしてくれた人もいたといいます)、ノルマのことばかり考えて、しばらくレッスンもリハーサルも身が入りにくかったそうです。

一方、男性の踊り手(バレリーノ)にはチケットノルマがありません。ノルマがないだけでなく、舞台に出るとお小遣いがもらえるのです。絶対的に男性の人口比が少ないので、稀少価値がある…というのが理由だそうです。また、男性を組んで踊るバレリーナは、男性のお手当ても払わなくてはならない(ことがある)そうです。それが「ノルマ」に含まれることも多々あるようです。

これは、日本の某有名バレエ団のプリマをはる有名バレリーナの話。彼女は日本のみでなく、世界的にも名の通ったプリマなのですが、バレエの専門家からの評価は(実際のところ)あまり高くありません。ではなぜ、そんな彼女がプリマをはるのか? 答えは簡単。「お金」があるからなのです。彼女には、その美貌ゆえに政界や経済界にファンが多く(誤解のないように言っておくと、別に体を売るとか、愛人契約をしているというようなことはありません)、彼らが彼女のパトロンとなります。「お金」があるのではなく、「金づる」がいるという表現のほうがふさわしいかもしれません。舞台を見に来る客にしても、技術云々よりも「美人」が踊っているほうが良いということもあり、プリマになれるのです。しかし、彼女がプリマとして舞台に上がる時、相手役の男性は必ず海外の一流どころと決まっています(これを読んで「あっ、あの人だ!」と気が付かれた方は、かなりのバレエ好きとお見受けします)。バレエを知らなくても、この人のことは知っている…という日本人は、かなり多いことでしょう。では、何で海外から相手役が来るのか? 金にものを言わせているのか? 彼女が外国人好き? 実情は、そういうことではありません。実は、彼女はバレエのテクニックにあやしいところがあり、日本のバレリーノの技術では受けとめられないのです。そこで、技術の確かな海外の一流どころを招聘するわけです。彼らであれば、彼女の軸がずれても、体勢を崩すことなく受け止めることが出来る。彼女がプリマであれば興行収入も黒字となるので、海外からバレリーノを招聘しても経済的に痛くなることもありません。

ちなみに、私の知り合いのバレリーナは「お金」が続かず、彼女よりも実力は劣るけれど「お金」のある後輩に、その後のプリマを譲ることになってしまいました。

また、「コネ」も最大の武器になります。団長の娘――これは、スタイルが悪くても、技術が足りなくても、男性と組んで踊れるし、プリマもはれる。以前、私が知り合いに呼ばれて観に行ったバレエ公演で、ずいぶんふくよかな女の子がいるなぁ…と思ったら、知り合いから「あれは、○○先生(バレエ団の代表)の娘さんです」と言われました。私の隣りに座っていた人が、「何であんなデブが男性と組めるのよ?! 私なんて、いまだに男性と組ませてもらえないのよ! 私のほうが技術はず〜〜〜〜っと上よ!」と激怒していました。おそらく、どこかのバレエ団の方だと思います。私もバレエが好きなので、以前はよく観に行ったのでちょっとは詳しいのですが、その発表会の中で、明かに振付の違うところを発見しました。男性が女性を抱え上げるところが、娘の体格を考えて代表(母親)が振付を変えたのでしょう、クルッと2回転して男性の肩に彼女がピタッと手を添えるようになっていたのです。バレリーナの母親が、代表に中元や歳暮にどの程度費やすのか――これもプリマへの近道のひとつです。

某有名バレリーナや、代表者の娘にのように、「バックボーン」がシッカリしている者に対して、マスコミや評論家が自由に発言できない風潮も流れています。「長いものには巻かれろ」なのか、とにかく安寧ばかりを追い求めているようです。

このように、スポーツや芸術の内容(中身)を知って評価することの出来る日本人が少ないことが、日本のスポーツ振興・芸術振興を遅らせていることに気がつかなければなりません。

日本のサッカーは近年「世界レベル」に近付きつつありますが、相変わらずバレーボールなどが「世界レベル」でないのは何故なのか? それはファンのせいであると考えられます。言い換えますと、ファンが弱体化を推し進めているのです。応援の仕方を知らないのです。男子バレーボール選手が、女性ファンにキャーキャーと黄色い声援を浴びる。自分がスターになった心地がする。格好良くプレーしようと、ファッションにも気を遣う…。

芸術家もそうである。例えば歌手がヒット曲を飛ばすと、あとは惰性でヒットすることが多々あります。以前、講義中に学生にこんな質問をしました。

単に「○○のファン」だから購入意欲が沸くのであって、詞が良いから、曲が良いから、編曲が良いから、歌声が良いから…というような理由からCDを購入するのではないことがわかります。ファンでいる理由も「顔が良い」「カッコイイ」「若い」ということで済まされることも多々あります。

こうなると、作詞家も作曲家も編曲家も、別に良い作品を作り出さなくても良い…ということになってしまうわけです。歌手も歌がうまくなくても良いということに…。

歌手に恵まれたら、どんな作詞家も作曲家も編曲家も、ヒットメーカーになれるのです。

実力があっても、そういうエセ実力者たちによって日陰に追いやられている者がいることを、忘れないでください。

スポーツと芸術の実力者の待遇の違うところは、スポーツならば記録を出せば実力の証しとなり得るのに対し、芸術の世界は日の当たる場所に立つ機会から模索しなければならないということです。良い曲を書いても、歌っても、無名だと相手にされないということなのです。

山崎まさよしがSMAPに提供した「セロリ」という曲があります。SMAPのほうはオリコンのチャートでベスト10に着実に入ったのですが、作者本人はベスト10にチャートインすることはなかったそうです。山崎まさよしいわく「何で作った本人のほうがランクが低いんだ?」。久保田利伸が今のような地位を築いたのも、田原俊彦に提供した曲がヒットしたからでした。

日本(人)が本当の意味で文化国家(文化人)になるのは、まだ先の話だと思わずにはいられません。

では、どうすれば良いのでしょうか? 私は、日本にも「スポーツ省」を設立させるべきだと思います。スポーツ大臣を内閣に入れ、国策としてスポーツ振興をすることによって、国民にスポーツの意義と内容を理解させる。文化芸術大臣という役職も必要かも知れません。もっと実力に応じた適切な評価法と、その目を養わせるスキルの開発が、日本では必要だと思います。

「人気先行」から脱する日本国家(日本人)の実現こそが、日本のアイデンティティにもつながるのです!