2001年1月のぼやき



1月31日(水)

伊勢佐木町にオープンした「カレー・ミュージアム」に行って来た。カレー好きの私には、何ともありがたいアミューズメント・スポットである上、新横浜の「ラーメン博物館」と違って入場無料なのが何より嬉しい。

平日ということで「多分、空いているだろう…」と思っていたのだが、大間違いだった。JR関内駅からイセザキモールに歩いていくと、何やら行列が出来ていた。「最後尾」と書かれたパネルを持った係員が「ここまら入場まで、約20分です!」と言うのを聞き、オープン直後とは言え、日本人のカレー好きの程がうかがえた。さらに、入場しても、カレーショップで食事をするまでに待ち時間20分弱。

しかし、待ち時間を苦痛にさせない工夫がなされているのがいい。「街並み」は大正時代の港町。ビルの7〜8階(かつてここには丸井ヤング館があったのだが、今ではゲームセンターやらパチンコ屋などが1〜6階にある)を異次元に招くような演出がなされていた。8階部分には豪華客船の客室や船長室などを模したつくりもあり、なかなか楽しい。ここまでくると、「ラーメン博物館」というよりも「ナンジャタウン」である。そして、「花火」が打ち上がったり、雷が鳴ったり…、若干小さな空間ではあったけれど、一日中いても飽きないミュージアムであった。

ちなみに、カレーショップは7店。あと6回は行かないと…。



1月27日(土)

昨日の19時過ぎ、JR新大久保駅のホームでカップ酒を飲んでいた37歳のサラリーマンがホームに転落し、それを助けようと面識のない47歳のカメラマンと26歳の韓国人留学生がホームから飛び降り、3人とも入線してきた山手線にはねられ、素晴らしい正義感と命を引き換えにした、いたましい事件が起きた。そのため、山手線と埼京線が一時不通になり、帝京大学福祉保育専門学校から帰宅しようとJR十条駅にいた私は、徒歩7分ほどのJR東十条駅から京浜東北線に乗って帰宅した。

そして今日、関東地方は大雪にみまわれ、そんな中を日本大学国際関係学部に出校し、担当科目「人間と社会U」の試験監督を務めてきた。朝、「在来線が中途半端な所で止まってしまったらどうしよう…」という不安があり、新幹線で三島入りすることにしたのだが、それが間違いだった。新幹線もダイヤが乱れ始めていて、私の乗るこだま号は定刻に新横浜に到着していたものの、なぜか(本当に「なぜか?」である!)ひかり号の通過待ちをするということで、遅れているひかり号を、何と12分も新横浜で待つハメになった。JR東海は、のぞみ&ひかりに力を入れ、こだま号をないがしろにしているような気がした。いつもよりスピードの遅いこだま号は、途中の小田原で「雪おろし」作業をするために、しばらく停車してしまった。この時点で、すでに定刻より30分近くの遅延。遅刻を心配した私は、国際関係学部に電話する。しかし「どうですか? でも、来れますよね?」という返事。試験開始時間を変更している形跡もなければ、試験が延期になっているようでもなかった。新幹線が静岡県内に入った途端、雪が雨に変わっていたので少しホッとした。それも束の間、三島に到着した時、すでに試験開始時間の15分前。私の教え子たちが走っている。そこに突風が容赦なく吹き続け、道行く学生たちのカサの骨を折りまくっていた。ちなみに、私のカサも、大学から三島駅に向かおうとした時、校門で折れた(折りたたみカサを持ち歩いていたので、焦りはしなかったが)。痩身の私の体ごと飛ばされそうな、そんなひどい突風が、三島市内を吹き抜けていた。キャンパス内外に、学生がさしていたと思われるカサの残骸が、散乱していた。

大学には遅刻ギリギリに到着。すぐ試験会場を確認…すると、今回に限って校舎が違う! いつもは、講師室のある13号館か、連絡通路で結ばれた4号館が会場なのだが、今日は13号館から一度外に出て、突風と大雨に吹かれながらキャンパス内をカサをさして歩かなければならない1号館だった。試験開始を15分ずらしてみたものの、それでもやっぱり遅刻する学生が多かった。が、この天候で、受験を諦めて大学に来なかった者もいると思う。受講学生153人中129名が受験。今日が通常授業だったら、こんなに学生、来ないだろうなぁ…と、試験監督助手についてくださった副手の女性二人と話していた。

帰り、三島駅で13:32発の熱海行きを待っていたら、「次の電車は、11分の遅れをもちまして到着予定です」という放送が入った。そこで、立ち食いそば屋できつねうどんを食べつつ、電車を待った。ところが、13:45を過ぎても電車が来る気配がない。「電車は、沼津〜三島間で停車中です。しばらくお待ちください」という放送が何度も入ったが、定刻を20分過ぎた頃、「電車は、三島駅構内での停電により、上下線とも運転を見合わせております」という放送が! だったら最初からそう言えばいい。そうすれば、素直に新幹線で帰宅したハズである。少々ガンコなところのある私は、しばらく復旧を待った。しかし、放送は、「電車は、三島駅構内での停電により〜」の繰り返し。復旧の見込みとか、作業の状況の案内もない。15:18になってやっと、電車が来た。ホームには前から後ろから突風に乗った雨が吹きつけていて、全身の感覚はなくなってきた。

JR東海も、「熱海までは、新幹線に振り替えます」くらいの気概があればなぁ…と思った。

連日、JRのダイヤが乱れ、そのあおりを受けていた私…。



1月24日(水)

今日、父親から封書が届いた。開けてビックリ! 1985年のつくば科学万博で投函したハガキ(ポストカプセル)が入っていた。私のハガキはアチコチさまよって、昨日になって実家に届けられたという。そのハガキを父親が私に転送してくれたのであるが、当時父親がポストカプセルに投函した私宛てのはがきも同封されていた。私の書いたハガキの文面は、以下の通り(原文縦書き)。

 大学1年の夏休みとして聡司(弟)と二人で
この万博に来ているが、非常に暑くてたまら
ない。
 前期の試験もまだまだだし、この先どうなる

ことやら…。
 おい慶亘! お前 文学修士 になったのか?
 自分の未来が心配ではこの先思いやられる
が、頑張ろうと思う。

 再見! 日本大学文理学部社会学科1年の夏
昭和60(1985)年8月9日(金)

15年以上前の自分の姿を思い出しつつ、このハガキを読んでみたが、当時から現在の職業に就くことを想定した学生生活を送っていたことを再確認した。

しかし、私は年内に郵便局まで出向き、ポストカプセルの住所変更届を提出していたので、何でアチコチさまよったのか、実家に配達されたのか、少々疑問。本来、このハガキは今年の元日に届けられるべきものだった。実家は、1994年に引越をしているため、それもハガキがアチコチさまよう原因の一つとなったのだが、私の提出した住所変更届を無視してあちこちさまよった挙句、実家に配達する郵便局の姿勢には、不信感を抱かざるを得ない。

このところ、私の郵送した手紙やハガキが、このようなトラブルに巻き込まれるケースが目立つ。これで郵政事業が民間に移行したら、いったいどうなるのだろう?



1月23日(火)

今日は弟の27回目の誕生日(明日は兄の37回目の誕生日)。だからと言って、何か特別に祝福するでなし…、私が祝福されることもなし…。

弟と言えば(?)今から8年前のことだが、帝京大学を受験し、その合格発表の日に彼は別の大学の受験をしていたため、大学院も仕事も休みだった私が発表を代わりに見に行ったことがある。今ほど兄弟仲が悪くはなかったので、弟のためなら…と帝京大学本部まで言ったのであるが、今なら目をつぶってでも歩ける十条界隈をオロオロしながら、キョロキョロしながら、挙動不審者のように歩いていたのを、つい昨日のことのように覚えている。

「こんな住宅街に、本当に大学の本部があるのだろうか?」と半信半疑ながら20分も歩き続けて、ついに「帝京大学」という看板を見つけた時、「やれやれ…」という思いがした。今なら10分もあれば歩けるのだが…。

それから2年後、まさか自分がそこに勤務することになろうとは、その時にはまったく思いもしなかった。今日、帝京大学福祉保育専門学校の3年生に「社会福祉U」の終講をする前に、そんなことをふと思い出した。

私が帝京大学八王子キャンパスの講師大量一斉リストラで「クビ」になった際、八王子でお世話になった会沢信彦先生(現在は函館大学勤務)からの紹介で、福祉保育に勤務することになったのだが、私の着任と同時に入学してきたのが、今日終講を迎えた3年生だった。彼らには1年次の「社会福祉T」「現代社会論」「社会学」を教え、そして3年次の「社会福祉U」を教えたわけだが、そういう経緯もあって、彼ら3年生には格別の思いがある。公私にわたって面倒を見て、また情報提供を受けたものである。

講義後、数名の学生にメールアドレスを教えてもらい、今度は現場の情報提供をしてもらう約束をした。こうやって、人間関係がつながっていけば良いと思う。



1月22日(月)

昨年12月に終講し、単位認定まで終わっている日本大学通信教育部の昼間スクーリング「社会学」の補講をするため、久々(?)に通信教育部に出講した。

例年、補講には履修登録数の10%程度の出席者がいれば良いと言われている。私の「社会学」の場合、今年度の登録は約110名だから、教室に11名いれば上々…ということになる。教室に入ると、そこには14名の学生がいて、さらに1名が遅刻して入室したため、全部で15名の出席ということになった。14%の出席率である。

年内最後の講義では、「補講では、どうして給料が上がらないのか…ということを、社会学的に分析した話をします」とアナウンスしておいたのだが、このところニュースや新聞をにぎわす「新成人」について日本大学国際関係学部で語ったところ大好評だったので、学生に「給料の話と新成人の話、どちらが聞きたい?」と聞いてみた。すると、14名がすべて「新成人」に興味を示したので、急遽(?)トピックを変更することになった。とはいえ、両方のプリントを刷っておいたので、慌てることなく対応できた。

内容は…といえば、1月7日のぼやきで書いたことを「社会学的」にアレンジしたものだったが、私の講義内容の(ちょうどよい)まとめになった。講義後、学生が数名来て、「次年度も、先生の講義を受けてもいいですか?」と申し出てくれた。単位のためではなく、自分の知識のために受講してくれる学生がいて嬉しく思う反面、その期待に応えきれるかどうかのプレッシャーもかかるが、4月からの講義準備に張り合いが出てきたことだけは事実である。

今日の仕事はこれだけだったので、歩いて7〜8分ほどの神田神保町まで足を運んでみた。しかし、今日も(平日だからなのか)神保町に往年の賑やかさはなく、学生の姿もまばらだった。どちらかというと、食事をするために神保町に出てきたというような社会人の姿が目立ったような、そんな感じだった。



1月21日(日)

昨日、夕方から関東地方では降雪があり、私の住んでいる横浜では、瞬く間に路面が雪に覆われ、気がつけば積雪9センチという状況だった。昨夜のうちに買い物も済ませ、日本大学の松戸歯学部と看護専門学校へ提出する「社会学」の試験問題を作成しておいたので、今日は気分的に楽だった。だから今日はゆっくりしよう…と、窓の外から雪かきの音が聞こえていても、私は昼前までフトンの中にいることにした。

ここ数年、夜間の講義を週3日担当するようになって、どうしても行動範囲を縮めたいと考えている。そこで、近々に…とはいかないだろうが、年内にでも引越を決行しようかと思い、賃貸住宅の情報誌を買っては見たものの、おいそれと良い物件が見つかるはずもなく、これは少々時間のかかる作業になりそうな気配である。



1月18日(木)

遅々としていた「人間関係論」の採点が、どういうわけか昨日のうちに終わってしまった。どこで加速がついたのか、まったくもって不思議なことだった。

今日は忙しなかった。まず、日本大学松戸歯学部での講義。その後、いつもより1本早いバスで松戸駅に戻り、食事を急いで済ませて国分寺経由で鷹の台駅(西武線)へ。朝鮮大学校との交流会のために帝京大学福祉保育専門学校の2年生13名を引率するためである。到着時間は12:50頃だったが、学生との待ち合わせ時間は13:30。駅周辺で暇つぶしをしようと思ったら、すでに6人の学生の姿が!? 彼らは12:00過ぎには到着していて、遅刻をしないように、みんなでまとまって来たという。

14:00、朝鮮大学校に到着すると、交流会と関係のない教員や学生からもすれ違いざまに「こんにちは!」と挨拶されたり、「帝京の方ですね。少々お待ちください」と丁寧な学生の対応。一同、驚く。まさか、私がこんなセットアップをしていたとは学生たちも思わなかったのだろう。学内の自然・歴史博物館を、金哲秀さんと学生さんたちに案内してもらっている時から、すでに交流会は始まっていて、ものすごく友好的な雰囲気。説明以外にも、日常生活の話題で盛り上がっていた!

交流会という名のディスカッション…これはちょっと堅苦しい雰囲気になってしまった。教室をひとつ借りて行ったのだが、お互いが「日本人」「朝鮮人」ということを忘れて話をしている時、そこには「垣根」が自然と取り払われていたのだが、「交流会」と銘打つと、再び「日本人」「朝鮮人」という違いを意識して、よそよそしくなり、「垣根」が現れる。この「垣根」こそが差別の根源なのだと思う。しかし、悔しいのは、敬意を表して朝鮮語で挨拶をした私だったが、ここ数年、ハングルは目にしても発音をしていなかったために、途中でかんでしまったこと。しかし、それでちょっと笑いを取れたので、これもこれで良いことにしたい。

ディスカッション後、購買を見学させていただいた。すると、またもや「垣根」がなくなり、学生たちは楽しそう(珍しそう)にそこに並んだ書籍や雑誌、アクセサリなどを眺めては買い物をしていた。お互いに携帯の番号を教えあったり、休日に会ってハングルを勉強することを約束しあった学生もいて、交流会は大成功と言っても良いほどの成果をあげた。17:00、正門前で手を振って別れを告げる時、福祉保育の学生も、朝鮮大学校の学生も、本当に別れを惜しんでいた。たった3時間で芽生えた友情…。

こういう交流を通じて、「垣根」を取り除けるのならば、それはすばらしいことだと思った。今日はこのまま素晴らしい人間関係の余韻に浸って眠りに就きたい…という夢も、13名の学生を福祉保育に連れ帰り、今度は彼らの前で講義をする準備をもって、はかなく崩れていった。

しかし、「また、交流会をやりたいです」という学生の感想が、私の疲れを癒してくれた。素晴らしい出会いに感謝したい。そして、交流会を成功に導いてくれた金哲秀さん、朝鮮大学校の学生さん、ありがとう!



1月17日(水)

帝京高等看護学院で担当している「人間関係論」の採点作業が、遅々として進まず。敗因のひとつは、15日(月)に新しいホームページ辞典を購入し、JavaScriptにハマッてしまったことと考えられる。今までHTMLしか知らなかった私にとって、JavaScriptは「目からウロコ」というような言語で(今ごろ…という声も聞こえそう)、これでホームページでの表現方法の可能性が“かなり”広がっていくこと、間違いなしである。その勉強のため、今朝5時までパソコンに向かっていた。

しかし、採点とホームページを“ながら”で…。こんなに私の落ち着きはなかったのだろうか…と、何だか自分が情けなくなってくるのも事実である。

今日で、阪神大震災から丸6年。実際に被害に遭われた方から話を聞かせていただいたことがあるのだが、それは私の想像を絶するような世界であった。しかし、同じ日本での話であり、決して他人事ではないと思ったのだが、だからと言って具体的な防災対策をしているわけでもなく…。反省すべきことばかりの一日である。



1月15日(月)

鳥取で生まれたその日に病院から連れ去られた新生児が、無事に発見され、犯人の女性も逮捕されたというニュースを見て、ホッとした反面、最近の病院の管理のずさんさに、ふと恐ろしいものを感じた、仙台の准看護士が点滴液に筋弛緩剤を混入させた件もそう。そのクリニックは経営不振のために薬剤師をリストラし、その時点から薬品管理責任者が誰なのかわからない状態になっていたという。今日、日本大学医学部附属看護専門学校に出講する私にとっては、格好のネタとなったわけだが、そんな状況が続くと、「明日はわが身」かと…。

池袋で日大病院行きのバスを待っていたら、国際興行バスの車体の多くが前面広告車となっていて、マイメロディの描かれているバスなどはカワイイのだが、やたらと目立ったのが「生茶」バス。朝は生茶バスに乗り遅れてしまったが、日大看護から池袋に戻る時は、生茶バスに乗ることが出来て、ちょっと恥ずかしいものを感じた、おまけに、日大看護の学生(ついさっきまで私の講義を聴いていた!)が、私に挨拶した後に、友達に向かって「生茶、来た! 生茶! 生茶!」と叫んでいたので、余計に恥ずかしかったのである。

余談ではあるが、今朝、池袋にどうやって行こうか考えた末、神奈川駅まで歩いて京浜急行に乗り、横浜(次の駅)でJR東海道線に乗り換え、品川から山手線に乗ることにしたのだが、横浜駅で京急・JR乗換口でパスネットを自動改札に通そうとした所、「お客さん、自動改札は(パスネットでは)通れないので、有人改札で精算してください」と言われてしまった。JRがパスネットに参加していないのが最大の問題であるが、なにより私を立腹させたのは、対応した有人改札の(京急の)係員が、「このカードで一旦外に出ましたか? 精算済みなんですが…」とか、「どこから乗ってきましたか?」などと、訳のわからぬ質問を私に浴びせたことである。どこから乗ってきたのかなんて、カードを見れば印字されているはずだし、乗車駅で初乗り運賃を差し引かれるのだから、横浜では精算する必要などないわけである。システムもわからぬうちにパスネットを(それも他社よりも遅れて)採用した京浜急行は、もっと社員教育をするべきではないか? おかげで、予定していた電車を横浜で1本やり過ごさなければならないハメになってしまった。それでも時間的に余裕はあったのだが、何だか後味の乗り換えであった。



1月13日(土)

日本大学国際関係学部の平成12年度の講義が終わった。年明けて1度しか講義しないことになるが、来週の土曜日がセンター試験会場となるため上、再来週の土曜日から後期末試験が始まるため、年明けの(土曜日の)講義は今日だけということになった。

近年、我々が「常識」と思っていることが若者には「常識」として映らないような状況があり、それをどう克服していくべきかを論議する必要があるような気がする。何とか、この状況を社会学を手段として解明できないものだろうか?



1月12日(金)

昨日のハードワークのせいで、昼前までフトンから出られなかった。仕事に差し支えるとマズイので、ゆっくり体を休めることにした。

夕方、帝京大学福祉保育専門学校へ。看護学院の学生15名と最終ミーティングを行い、授業に備えた。「教育相談論」の授業の中で、彼女たちは幼稚園(または保育園)に子供を預けているお母さん役で、園にクレームをつけに行くという設定で演技してもらった。福祉保育の学生を5人一組にして2グループ、看護学生も7〜8名で1グループ、そして以下にクレーム対処をするのかを、学生たちに考えてもらった。

しかし、看護学院の学生たちの演技は「迫真」と呼ぶに相応しいもので、演技指導した私までが怖くなるような、そんな空気が流れていった。彼女たちは、福祉保育の学生たちが驚き、困る表情をじっくり見てもらった。彼女たちには「これが、看護実習に出た君たちが患者から無理難題を押し付けられた時にする顔なんだよ」と説明しておく。相手を困らせることは簡単に出来る。でも、相手からそれをされたら…という気持ちを知ってもらうためにも、看護学院の学生を呼ぶ必要があったのである。



1月11日(金)

ものすごいハードワークを(久々に)体験した。9:00から10:30までは日本大学松戸歯学部の講義。講義後、急いで小平市の朝鮮大学校へ向かう。来週の木曜日、帝京大学福祉保育専門学校の2年生(mihoさん在籍)と朝鮮大学校の学生との交流会を行うことになっているので、その打ち合わせをするためである。「総合演習」という私の担当科目のイベントとして交流会を行うのだが、帝京の学生はほとんど朝鮮文化について、あるいは在日コリアンについて知らないため、双方の教員同士で念入りな打ち合わせが必要だと感じたのである。

朝鮮大学校を訪ねる時、いつもは西武線の鷹の台駅を利用するのだが、今日は松戸からの移動であったため、初めて武蔵野線の新小平で下車して向かってみた。道はわかっていたものの、なかなか朝鮮大学校に着かない。実は、地図で見ると新小平駅と朝鮮大学校の距離は近く見えるのだが、実際は徒歩35分(!)という位置関係にあった。そういうわけで14:00に校門前で朝鮮大学校教員の金哲秀(キム・チョルス)さんと待ち合わせたのだが、3分遅刻となってしまった。金哲秀さんとは長いこと会っていなかったので、この再会は嬉しかった。かつて、彼と私は福岡安則・埼玉大学教授の主催している「マイノリティ問題研究会」で、ともに在日コリアンの問題に関心を寄せるもの同士として意気投合した仲であった。

大学構内に招かれ、1時間半ほど交流会の打ち合わせをした後、再び休む暇もなく帝京高等看護学院へ向かう。昨日行われた「人間関係論」の答案を引き取り、またもや休む暇なく帝京大学福祉保育専門学校へ。そこには看護学院の1年生が14名(1名欠席)控えていた。明日の「教育相談論」(1年生)の授業で、彼女たちは私のアシスタントとして協力してもらうことになっている。ミーティングが終了するや、休む暇もなく「総合演習」の授業。そして、休み時間には、来週朝鮮大学校に行く学生を半分集めて説明会。休む暇なく2時限目。休む暇なく説明会…。

かなりの疲労感が残ったものの、まだまだ私にも体力があることを実感し、ちょっとだけ嬉しくなる



1月9日(火)

日本大学医学部附属看護専門学校に出講した。これが私にとって21世紀最初の講義となるため、少々緊張し、そして特別な思いでのぞんだ。しかし、久々の講義であることと、年内の講義(12月4日)で話せなかった(話さなかった)部分を解説するのに時間がかかり、さらに朝起きてすぐに新聞から切り抜いた記事(各地の成人式における新成人の蛮行の数々)を紙に貼りつけて持参したり…と、段取りが今朝になって変わったのも重なり、時間内で予定していた話(医療社会における地位と役割)が終わらなかった。やむを得ず、来週の講義テーマを今日の続きに変更することにして対応したが、かえってそのほうが看護学生にとっては都合が良いと、専任教員から言われ、ホッとする。人間万事、塞翁が馬とはこのことか?

「成人」というのは「人間になる」の意味であり、「大人」というのは「大いなる(偉大なる)人間」のことだと、私は思う。人間は、(これは私が講義で、著書で述べていることであるが)周りの期待に応えて役割演技の出来る存在であり、「大人だから何をしても許される」のではなく、「大人だから、自分の思い通りに振る舞えない」ことを認識していなければならない。それを、成人式の式典で、知事の挨拶の最中に「帰れ」コールしたり、市長の祝辞の最中にクラッカーを鳴らしたり酒盛りするというのは、「成人」ではなく「退行」でしかなく、子供に戻ってしまった(子供以下に成り下がった)生き物としか思えない。「恥」の源泉は、周りの期待に応えて役割演技することが出来なかった自覚であり、それがないのだから「成人式」などに出る資格はない。「成人」として祝福されるべきではない。

講義の帰り、久々に神田神保町に寄った。「久々に」とは言え、日本大学通信教育部は神保町の近くにあるので、訪ねる機会は結構多いのだが、時間的な余裕がなく、書店でゆっくり本を選ぶことは出来ずにいた。それで今日、ようやっと時間が取れたので数件の書店に寄ったが、気に入る本がなかった。界隈のにぎやかさも消え(学生の活字離れが原因?)、寂しい限りだった。私が学生だった頃の、昼間でも歩道をまっすぐに歩けないほどの雑踏と、書店での“おしくらまんじゅう”状態が懐かしい。



1月7日(日)

明日は成人の日。私の感覚からすると、成人の日1月15日でないとしっくりこない。ハッピーマンデーによって、昨年から「成人の日は1月の第2月曜日」となったのだが、今年の私は「ただ1週間早まっただけ」という印象しか持てない。本当に、ハッピーマンデーは経済効果があるのだろうか? どうも政府の考えることは理解出来ないことばかりだ。

私が成人式に出席したのは14年前のことで、日数計算すると今年の新成人と5107日(1987年1月15日から起算)も隔てられている。成人式だからといっても、男だからか、親類縁者からのお祝いもなく、写真館で記念写真を撮るなんてこともなく…。そういえば、私の成人式の写真なんてものは1枚もない。高校時代の塾の同級生にひとり、同じ区内の住民がいて、彼と一緒に成人式の式典に参加して、そのあと、無料送迎バスでイベント会場(とは名ばかりの青少年センター)で豚汁とか餅を食べて、古本売り場(何でこんなものが出ていたのか、私も目を疑った!)で文庫本を1冊買って帰った(その本が何だったか、全く覚えていない)。早生まれの私は成人式の時点ではまだ19歳だったわけで、成人という実感がわかなくて、「何となく」その日が過ぎていっただけだった。

ただひとつ、記憶に鮮明に残っていることが…。成人式で「横浜」と「成人式」に強引に関連付けられたミュージカルが上演された。プログラムに舞台で歌われる曲名が載っていたのだが、『祭』という曲名の横にシールが貼ってあり、説明を隠していた。「何だろう?」と思った私は、プログラムを光にかざしてみた。すると、シールの裏に「北島三郎の歌」と書かれていたのである! 「あぁ、なるほど…」と納得する私。北島三郎はその前年、暴力団関係者の結婚式に(弟子の山本譲二と一緒に)出席していたのが年末に発覚し、ふたりして紅白歌合戦出場を辞退したのである(その結果、鳥羽一郎と角川博が繰上げ当選となったが、鳥羽一郎はこれを辞退したような記憶がある)。そのため、「おめでたい成人式の席に、そのような人物の歌は相応しくない」と横浜市の関係者が判断したのだろうか、当日の舞台では「♪む〜らのちんじゅのか〜みさまの〜」と、おおよそ成人式とは思えないようなミュージカルが展開されていったのである。

今日の読売新聞で読んだのだが、埼玉県深谷市で昨日行われた成人式の式典で、市長からの祝辞の最中にも新成人が私語や携帯でのおしゃべりをやめなかったので、市長が大声で怒鳴り、読むはずの祝辞を足元に投げつけて、そのまま席に戻ってしまったと、そんなことが今年も起こったという。社会のルールもわからぬ奴らに、「成人」(=人間になる)を名乗らせて良いのかな? 挙句の果てに、「静かにしなかった私たちも悪いけれど、祝辞を途中でやめてしまった市長も許せない」というような発言をした新成人がいたとか。

今後、現在の精神年齢に照らし合わせて、「成人」の規準を25歳くらいまで引き上げ、それまでの喫煙や飲酒は即刻「逮捕」するようにでもして、徹底して「共感性」「社会生活と規範」の関係(ひらたく言えば常識)を叩きこむ必要があるように思う。

これぞ、本当の「ぼやき」である。



1月6日(土)

訳あって体調が悪い。前日に引き続き何もやる気が起きないが、正月休み中に作成しておかなければならないシラバス4本(すべて日大。通信教育部1講座、国際関係学部3講座)を片付けようと思い、パソコンに向かった。松戸歯学部のシラバスは、年内に片付けておいた上、Wordで作成されたフォーマットが大学から送られてきていたので、そこに直接打ちこむだけで済んだ。

このところ、シラバスに書くことが多くなり(私に文章をまとめる能力がないのではなく、若者の「想像力」低下を考慮してのことである)、ラベルシールに印字したものを切り貼りするようにしている。そのデータを保存しておけば、インターネット上でシラバスを公開することも出来るし、次年度以降の作業も楽になる…と思ったのだが、私はシラバスをほぼ毎年書き直しているので(毎年新しいシラバスの提出を要求される大学もある)、楽は出来ないことが判明した。

ただ、手書きよりも楽は出来る。同じ文章だったらコピー&ペーストすればいいし、順序を変えるのだったらカット&ペーストで事足りる。消しゴムや鉛筆の消耗もおさえられる(電気代はかかっている!)。ただ、そうやって機械任せになっているから、先日みたいにパソコンが壊れると困ってしまうのかも知れない。

これも「テクノ・ストレス」かと思うと、何ともやりきれない!?

関係ない話なのだが、昨夜スペアリブを食べた。骨がもったいなかったので、数時間ほど鍋で煮込んでみた。そして今日も煮込んでラーメンスープを作ってみた。美味だった。



1月5日(金)

何もやる気が起きず、ゴロゴロしていたところ、朗報が入ってきた!

私の教え子にして、相互リンクサイト「WITCH'S FOREST」の管理人であるうぃっちが、今月2日に、女児を出産し、ママになったというのである! もともと予定日が昨年の12月25日だったので「ミレニアム・ベイビー」かと期待されていたのだが、なにはともあれ、おめでたい!!



1月4日(木)

運転免許証の更新に行って来た。神奈川県運転試験場で更新したが、ここに来るのは平成10年7月以来。暴漢に襲われた時に免許証を紛失し、再発行をしてもらったのがその時期だった…。私は平成8年以来「ゴールド免許」と名高い優良運転者免許なので(あまり車を運転しないのがコツ?!)、更新手続きは5年ぶり。それにしても…、利用者無視の窓口の多さに閉口。申請書類を受け取る窓口→証書を購入する窓口→申請書類のチェックを受ける窓口→適性検査の窓口→申請書類提出の窓口→写真撮影…と、全部ひとつの窓口でやればよさそうなものだが、お役所仕事の性質は、一向に改善されていないようである。

講習も25分程度、ビデオを見て(古い映像で、とても見づらかった)、神奈川県の交通事故に関する若干の解説をされ、講習教室で免許証を受け取って終了となったが、講習開始まで待たされること30分! 講習を受けるのは義務だし、仕方なくずっと静かに(教室にはいる際に配布された)教本などをパラパラめくりつつ、時の過ぎるのを待った。

免許証の有効期間は5年間、写真も5年間同じ…と思うと、写真撮影時の“笑顔”にも力が入ったが、出来上がった免許証をみて愕然となる。明るい雰囲気を醸し出すために黄緑色のフリースを着て写真撮影に臨んだが、その黄緑色が顔に反射していたのである!? 顔色の悪い写真…、トホホ。



1月3日(水)

昨年も1月2日にOSのシステムが壊れた。そして昨日、夜中にパソコンが不具合を起こした。数日来、Internet Explorerで「不正処理」の表示が多発するようになっていたので(だからといってインターネットが見られなくなったわけでもなかったのが良くわからない)、モジュール違反のシステムを検知し、システムファイルチェックして再起動したところ、デスクトップの壁紙が表示されたところで「不正処理」の表示が出て、そこから先に進まなくなってしまった。何度再起動しても、何をやっても同じ。こういう時、Safeモードで起ち上げると…とF8キーを連打したが、そのSafえモードさえ「不正処理」に阻まれた! 壁紙までアクセス出来るのだから、ハードディスクが壊れているわけではないことは明々白々。あまり焦ることもなかったのだが、このままだと仕事が出来ない…ということで、仕方なく、Windows98のCD−ROMの箱の中から起動ディスクを取り出し、そこからWindowsを起ち上げようとしたのだが…、好転せず。

9区(横浜駅付近)

1

駒澤

順天堂

3

中央

4

法政

5

山梨学院

6

神奈川

7

大東文化

8

帝京

9

日大

10

東海

11

日体

12

拓殖

13

早稲田

14

平成国際

15

国學院



日付が変わった頃、このサイトでも大変お世話になっているTOINETの外池さんに「起きていたら電話ください」と携帯電話のメールを送ってみた。すると数分後、外池さんから電話が入り、事の次第を説明した。すると、考えられることとして、私が修理したと思ったシステムが、実は壊れているのではないか…という疑いが出てきた。壊した(と思われる)システムと同じ物は、ノートパソコンにもあるので(同じWindows98なので)、それをフロッピーにコピーし、DOSモードでデスクトップに移し替えてみた。すると、何の問題もなく起ち上がるようになった!(しかし、DOSなんてめったに使わないものだから、外池さんの指示はありがたかった)

夜明け直前(?)にフトンに入ったのだが、今日は何が何でも箱根駅伝を生で見たかったので、10:00には起きて着替え、テレビで駅伝の状況確認をして、11:30過ぎに家を出る。歩いて3分、沿道(9区)は想像を絶するほど空いていた。近所の人しかいないみたいであった。子供の頃から大学時代まで、私は2区・9区の権太坂付近で観戦していたのだが、今回初めて、今の自宅近所で観戦と相成った。目の前を通過していった順番(箱根での時差なしスタートや中継所での繰上げスタートがある上、東海大学は昨日の2区で棄権しているので、順位とは異なる)は、右記の通りだった。

やはり、テレビで観るのとは違って、迫力があったが、(小心者の私は)新聞社の配っている応援用の紙製の旗をもらえず(何故だ?)、拍手だけで応援することとした。選手が通過するたびに沿道の歓声が最高潮に達する。一生懸命に走っている選手たちの姿は、とても素敵だった。私も、母校だの出向先だのにとらわれず、どの大学にも差別なく一生懸命に手を叩いて応援した。沿道の(にわか)駅伝ファンのマナーの悪さに辟易する。別に応援ルールがあるわけではないが、あとから来て、私の確保した絶好のビューポイントに割り込み(横入りして)、家族全員をそこに招き入れたおじいさん&あばあさん、そしてその娘のひとりであるヤンママ…。結局私は、誰にも前方を邪魔されない植え込みの所に移動しての応援となった。しかし、何とか逆襲してやりたいような気も起こり、日大が通過する時、ヤンママの耳元で「ほらっ、ガンバレぇ!」と自分の最大の力を振り絞って叫んだのが、精一杯の抵抗だった…。

夕方、フジテレビで女子アナの番組をやっていたが、そこに私の教え子が出演しているというので、ビデオに撮っておいたが、フジテレビの(あまりクレバーとは思えない)アナウンサーばかりが目立っていたようである。その教え子からも年内に以下のようなメールを受け取った。

私もアノ恒例のお正月の「女子アナ新年会」に出なければいけません。先日、それに関する事前のアンケートが来たのですが、すごくおチャラケて書かないといけませんでした。フジのアナはバラエティーならバラエティーだけやっていればいいけれど、地方局アナはニュースも読まなければいけません。だから、本当はあんまりそういう『女子アナ・・・』みたいな番組には出たくありません。。。そして・・・キー局のタレントアナウンサーみたいな人たちがマスコミで取り上げられるので、地方局で地道にアナウンスをしている私たちまでもがチャラチャラしているように思われて、不愉快なときもあります。この空気、どうにかなりませんかねえ・・・。実際、地方局のアナは半年研修してから、そのあとも日々勉強ですが、キー局は3ヶ月だか3週間研修したらあとはおしまいです。だから、ある意味「期間限定アナ」みたいに年をとったら使えなくなってしまってかわいそうなんですけどね・・・。

こんなことだから、日本の公共放送の質が向上しないのかもしれない。



1月2日(火)

初夢を見すぎて(?)寝正月になりかけた。自宅から徒歩わずか3分の所を箱根駅伝の選手が走っていった頃には夢の中で、駅伝はテレビ鑑賞(それも選手がほとんど箱根の山登り)だった。日大に帝京、日体大…、自分の出講先がこう競い合っていると、「母校だから」という理由だけで日大を応援するのがためらわれてしまう。しかし、箱根の山越えでは見ごたえのあるデッドヒートが繰り広げられていて、21世紀最初の駅伝としてはこれ以上ないくらいの素晴らしさだった。出講大学は(往路は)帝京、日大、日体大の順でゴール。明日は沿道で見てみようかと思う。悔しいのは、私の家のそばは「花の2区」なのだ!

初夢といえば、私は3話オムニバス的に見たのだが、それがあまりに強烈過ぎて、鮮明な記憶として頭の中に入っている。そして、それらがすべて20世紀の私の性格と人生を凝縮したようなものだった。いちばん面白かったのは、私が小笠原に行く夢。小笠原研究をしている社会学者は、世界広しと言えども、私の研究グループ(代表は私ではないが)くらいなもので、これは私の専売特許の1つでもある。そして、その私の性格もよく表している夢を見たので、ちょっと紹介しておこうと思う。

ちなみに、私は乗り物に乗る時、飛行機なら国際線で5時間前、国内線で2時間前に空港入りするし、新幹線も(通勤で乗車する時を除いて)1時間前に駅に着く。ただ、他の夢も啓示的(?)だったので、この初夢を見ることで、「20世紀の私にサヨナラしろ!」「21世紀に生まれ変われ!」ということなのかも知れない。

しかし、人間は一朝一夕に変われるものではない。今日、近所のマルエツに買い物に行った時のこと。昨日の新聞の折込広告に「賀正上にぎり寿司20個入りが1,980円」と載っていたので、「新世紀初の正月だし、ここはめでたく奮発して…」ということで(?)、その広告商品を買おうと思った。しかし、それだけを買ったんじゃあ、「この客、めったに寿司が食べられないものだから…ヒソヒソ」なんて店員に言われたりするとか(するかっ!?)そんな心配もあったので、他の買い物も一緒にして寿司売り場に行くと、何と1,980円の寿司に「レジにて半額」というシールが貼られていたのである! 新年早々、幸運が舞い込んできたような気がするが、これで今年の運を使いきってしまったら…という一抹の不安を覚えてしまうのは、おそらく私だけだろう。



1月1日(祝)

元日である…、つまり2001年の幕開けである…、つまり21世紀の幕開けである…、と、新聞もテレビも、街中の挨拶も、一様に語っている。先月と今月、昨年と今年、前世紀と今世紀…という違いが、まだ何となくピンとこない。くるのは、昨日と今日の違いだけだったが、郵便受けに年賀状の束を見つけると、「新年」という感じになってくるので、自分が日本であることを思い知る。

午前中、市内にある実家へ行き、屠蘇を飲み、雑煮やおせちを食す。しばらく落ち着いた後、鎌倉の鶴岡八幡宮に初詣に行く両親、弟と共に横浜まで出る。兄は家でテレビ鑑賞らしい。私は家族と同行せず、いったん帰宅し、メールチェックをし、こちらが賀状を送っていない人の宛名書きなどを行った。今日はおめでたい日なので、いつも元日には仕事(通常業務?)をしないことに決めている。

「私の周りには、いつも“事件”が転がっている」と、学生によく語るのだが、2001年も事件発掘のゴッドハンドの本領を発揮することとなった。電車の中で座ってウトウトしていると、急に私の座席横にある手すりを「ドンッ!」と叩く男がいた。その男は、次々に手すりを叩きまくり、そのたびに「バチッ!」という音をさせ、「イテテッ!」という顔をしていたのである。私も静電気には弱いほうだが(物理学者に計測してもらったところ、私の身体には静電気がかなりの帯電しているらしい)、どうやら私以上に静電気に弱い男がいたらしい。そして、一度でやめれば良いものの、強情なのか、照れ隠しなのか、とにかく車両中の手すりという手すりを触っては、苦痛に満ちた顔をさせ、車内の初笑いを誘っていた(?)のである。もっとも、私を含め、乗客はみな笑いをかみ殺していたのであるが…。

午後、「やはり縁起ものだから…」ということで、自宅近所(徒歩3分)にある洲崎大神まで初詣に出かけた。この神社は、源頼朝公にゆかりがあるようで、横浜に引っ越して(戻って)来て以来、夏祭りや願かけなどでよく訪ねたのだが、初詣で訪ねたのは実は今日が初めてであった。賽銭をあげ、拝礼、拍手(かしわで)…と、ひとつひとつの動作に願いを込め、その後「おみくじ」をひいてみたが、結果は中吉。「古きを捨てて新しきにつくがよい。あまり一つの物にこげついて役にも立たぬことを思ってはだめです。元気を出して捨てるべきは捨て進む所へ進め」とある。全般的には程よい運気であるが、学問の項に「自己への甘えを断ち目標を定めよ」とあるのを見て、今世紀の私の進むべき道が決まってきたような気がする。


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