第6回 知識と常識 その2



「知識」というものを私は「人間が積極的に(主体的に)認識したもの(受け入れたもの)を、客観的に伝達できること」と定義したいとい思います。要するに、主観を入れないで、どれだけ事実を事実として情報整理できるか…ということが肝心です。そして、この「知識」というものは、(1)教わる、(2)調べる、(3)経験する…というすべての活動を満たしてはじめて確実なものとなり得ます。さらに、その「知識」を得る姿勢が整えば、「常識」も知ることが出来ると期待できます。

ですから、講義中に居眠りしていたり、隣の学生と雑談などをしている学生は、積極的に(主体的に)認識しようという姿勢に欠けることとなり、結果的に終講試験で不合格になること必死です。ですから、私は講義中、私語や居眠りをしている学生には、講義を中断して注意を与えます。「すいません」と謝る学生も多いですが、中には私をにらみつける者、「そんな細かなこと、注意しなくてもいいのに…」と言って学生をかばう者、無反応な者、余計に態度が悪くなる者…などなど、反抗的な学生もいたりします。

『ストレス・スパイラル』を執筆した時、「悩んでいる人のほとんどが、その原因を自分でつくっていることに気付いていない」と、世間にアピールしました。件の学生たちは、キチンと教員の解説を聞いていなかったわけですから、「知識」を得ることが不可能です。結果、終講試験では “主観” に基づいた(講義内容に基づかない)解答を作成し、不合格になります。再試験を受けたところで、テキストやノート類を持ち込ませたところで、合格するはずはありません。

「知識」を得られない状況を自分で作り出して不合格になったのにもかかわらず、「アイツ(教員名)に単位、落とされた!」「アイツ(教員名)の講義って、よくわかんねぇよな!」「アイツ(教員名)って、細かなことばかり言うよな!」などと、教員を非難し始めます。

自分の非を認めず(態度や姿勢を改めず)、相手(教員)ばかりを責めていたのでは、いつまで経っても単位認定されません。

私としては一人でも多くの学生を1回の試験で合格させたいので(再試験対象者を一人でも少なくしたいので)、講義中に私語や居眠りをしている学生を見つけると、講義を継続できない…という状況に陥ります。

私は「教師はサービス業」という部分も持ち合わせるべきだと思いますので、自分の子供が「知識」を正しく得られるようにと、学生の親御さんたちが大学に期待して納めた授業料に見合う結果を導く義務もあると考えます。親御さんたちだって、安くない授業料を納めているのですから、自分の子供が講義中に私語や居眠りをしていたり、さぼったりしているのを知ったら、きっと虚しくなるでしょうね。

しかし、学生たちにも「今まで、授業中に教師から注意された経験がない」という事情もあるようです。以前、「この大学で、学生に注意するのは先生(=私)くらいだ!!」って、学生から逆ギレされたことがあります。誰も注意しなかったんですね、態度の悪い学生に対して…。情けなかったです。

自分の育ってきた環境や、今までの経験、価値観で「常識」を作られると、私のほうが「非常識」な発言をしていると、学生に判断されることになります。

つい最近、私が「社会学」の講義をしていた時のこと、14時半までが私の講義時間だったのですが、その5分くらい前に教室後方の扉から学生が入室し、何食わぬ顔で最後列の座席に腰掛け始めました。私が「君は、社会学の履修学生か?」と聞くと、その学生は「違います」と答えました。私が「だったら、出て行ってくれ!」と言うと、謝罪もせずに退室していきました。おそらく、そういう退室命令を受けたことがないか、あるいは注意をされたことがないのでしょう。だから対処方法がわからない…。

最近、謝意を表する「知識」を得ていない学生が多く見られるようになりました。「学力低下」などといいますが、私の観察からしてみれば、それは「知識力低下」と表現すべきことです。