第5回 知識と常識



芸能人になれば、「元暴走族」でも「元不良」でも禊(みそぎ)が済んだことになるのでしょうか? 私は学歴至上主義者ではありませんが、「非常識」でも「知識欠如」でも「中卒」でも、芸能人になれば「立派」「一人前」に扱われるのでしょうか? 芸能人であれば、「出来ちゃった結婚」を大々的に発表しても祝福されて良いのでしょうか?

通常、「中卒」でフリーターをしていても、その理由によっては、世間から「一人前」扱いされないどころか、かなりの憂き目にあいます。しかし、ひとたび芸能人になってしまえば…「彼/彼女は、自分の夢をかなえるために、中学を卒業してから、進学もせずに頑張ってきたんだ!」という評価を世間が与えるでしょうし、何を言っても(それが、あまりに拙い内容であっても)とがめられません。オピニオン・リーダーになることだってあります。

でも、芸能人になれなかったらどうなるでしょう?

芸能人でない人が「出来ちゃった結婚」をした場合は、どうでしょう? 「ふしだら」というレッテルを貼られることが考えられます。

過日、テレビに俳優の丹波哲郎氏が出演していました。丹波氏は中央大学の英語部出身ということで、終戦後にGHQの通訳を務めたことがあります(それがきっかけとなって「007シリーズ」の出演となったという話を聞いたことがあります)。番組には(枯れ木も山の賑わい的に)女性アイドルが5人出演していましたが、司会の草野仁氏が「GHQって言っても、みなさんにはわからないですよね?」と5人に言うと、恥ずかしげもなく全員が「知りません」「何それ?」「わかんない!」を連発しておりました。丹波氏が「GHQ…つまりGeneral Headquartersのことだな」と解説しても「わかんない!」が続きます。草野氏の「連合国総司令部のことですが、まぁ若いみなさんには…」というフォローが入りましたが、GHQについては小学生で習うはずです。百歩譲って小学校で習わなかったとしても、中学校の社会科で必ず習います。私は元々社会科の教員でしたから、カリキュラムについては自信を持って言えます。なのに、それを知らないというのは、いったいどういうことなのでしょう?

クイズ番組の芸能人大会もよくテレビで放映されています。しかし…常識的なことを知らない芸能人の多いことに、今さらながら驚かされます。ある番組では、胸が大きいということだけで人気のある女性アイドルに「次の生き物の中で、母乳で子どもを育てるのはどれ? A.ヘビ、B.サメ、C.クジラ、D.サンマ」という問題が出されたのですが、彼女は「えっ、この中に答えがあるんですか?」とのたまい、「ライフライン」という手段を使って知り合いに電話をかけ、答えを聞いたのですが、その知り合いが「あぁ、哺乳類ですね。クジラ(が答え)です!」と彼女に教えてあげたのにもかかわらず、彼女は「え〜っ、ホントかなぁ」と半信半疑でした。彼女は結局、「スリランカと国名を変えたのはどこ?」という問題で「ラオス」を選択して解答権を失いました。他にも「『枕草子』の作者は誰?」「アメリカの2大政党は、民主党と何?」など、選択肢などなくても答えられるような常識問題が多数出されましたが、「ライフライン」が多用され、私は「芸能人って、いいなぁ…。いくら無知でも人気が下がることはないし」と本気で思ってしまいました。

かつて、私が女子短大の教員をしていた頃、ある常識的な質問をしました。しかし、教室にいた60人全員が「わかりません」と恥ずかしげもなく答えてきました。時間的な都合もあり、私は答えを教えました。すると、60人が一斉に「エ〜〜〜〜ッ、そんなの知ってるほうがおかしい!」「ふつう、(そんなことは)知らない」「先生のほうがおかしい」などと言い出しました。私が「自分の知識だけで常識を作るな! 世間に目を向けろ!」と一喝しても、まだ不満顔でした。

「ここがヘンだよ日本人」という番組で、「アメリカ大陸の場所なんて知らなくても、生活で困る事はないし、立派な国際人として生きていける。自分はアメリカからの帰国子女ですが、アメリカ大陸の場所なんて知らなくてもアメリカに何度も行ったし、友達もいるし、飛行機にさえ乗れば、黙っていてもアメリカに連れていってくれる」とのたまっていた日本人がいました。アメリカ人の出演者は「アメリカ大陸の場所も知らないで、アメリカ通であるようなフリをするな!」とか、「アメリカ大陸の場所を知ることは、長い人類の歴史の流れを知ることにつながる」などと反論しました。しかし、件の日本人は持論を曲げません。そして、「アメリカ大陸の場所を知らないと、何か問題になるんですか?」と、アメリカ人にくってかかったのです。すると、司会の北野武氏が「その態度が問題なんだ。だいたい、アメリカ大陸の場所なんて、知っていて当然のことなんだ。自分の知識が足りないことを恥ずかしいと思わないのか?」と反論し、その場は落ち着きました。

自分の生活環境という、ごく狭い中でのみ価値観を身につけてしまうと、自分と同じ環境にいる者としかコミュニケーションをとろうとしない(とることが出来ない)という問題が生じます。これを野放しにしておくと、さらに大きな問題に発展する危険性を孕むことになります。つまり、自分と違う環境や価値観を持つ者とコミュニケーションをとらず(とることが出来ず)、さらに自分と違う環境や価値観を(全面的に)否定する傾向が強まってきます。こうなると、自分の環境と価値観を守るという大義名分のもと、暴力や殺害が正当化されることも考えられます。自分と異なる者を排除することで、居心地の良い、自分(たち)だけのためにフォーマットされた環境と価値観の中で暮らそうするわけです。または、自分(たち)にとって都合の良い環境と価値観を後ろ盾にして暮らそうとするわけです。

私も、社会学者として色々な講義を担当します。学生に必ず「私の講義を聴いて、それで社会学を知ったつもりにならないで欲しい」ということを最初に言います。私の教え子の中には、私の講義を聴いて「社会学」をすべて理解したつもりになり、私に相談なしに社会学系大学の編入学試験を受け、不合格になり、「アイツ(=私)の教え方が悪いから不合格になったんだ!」と文句を言っていた者がいます。私の社会学も「社会学」ではあるけれど、別の「社会学」もあるということです。中華料理は麻婆豆腐やチャーハンだけでなく、餃子やシウマイ、北京ダックに…と色々なものがあるように…です。

世界は広いのです。自分の環境が知識を左右するのは社会学でも「視座」という言葉で説明されていますが、もっと広い人間関係を構築し、広い世界観を身につけておかないと、このボーダレスやグローバリゼーションの世の中を生き抜くことは絶対に出来ません。